不可侵オドントグロッサム
やけに静かだなと思いながら生徒会室に足を踏み入れた瞬間、お疲れ様ですと言おうとしていたスザクの口は「お」の状態のままぴたりと止まった。
室内には珍しくルルーシュとシャーリーのふたりしかいない。どのクラスもとっくに放課後に入っているであろう時間帯にこのふたりだけが生徒会室にいるという状況もスザクにとっては十分珍しいものなのだが、さらに珍しいことにどうやらルルーシュは机に突っ伏して寝入っているようだった。ルルーシュの居眠りと言ったら、真っ先に思い浮かぶのはあの考え事をしているようにしか見えない、肘をついたポーズ。あんな風に分かりやすいかたちで居眠りをしているルルーシュをスザクが見るのは初めてのことだ。
それはシャーリーも同様のようで、ルルーシュの隣の席に座った少女はひたすらその寝顔に見入っている。
戸惑いと嬉しさに満ちたシャーリーの横顔を見て、スザクは声を掛けるのをなんとなく躊躇ってしまう。
スザクにほとんど背を向けている状態のシャーリーはスザクの存在に気づくことなく、そっちこっち角度を変えてはルルーシュの寝顔を覗き込んでいた。身じろぎもせずにひたすら眠りこけているだけの人間を見ていて何が面白いのだろうとは、さすがのスザクも思わない。それが想い人であるならどれだけ眺めていてもきっと厭きることはないのだろう。スザク自身、自分があそこに座っていたらずっと眺めているんだろうなと思う。
不意にルルーシュが顔を動かした。
伸びをする時に出るようなくぐもった声をあげて、顔の位置をずらしている。猫のような仕草だった。腕で大半が隠れていた寝顔がより見やすくなった。
するとシャーリーは頬をぽっと紅潮させてちょっとはにかんだような笑顔を浮かべた。好きという感情がありありと見て取れる、とても可愛らしい恋する少女の表情。だが可愛いなと思う反面、スザクの胸に苦々しいものが押し寄せてきた。
じりじりしながら、だからと言って自分の存在を主張することも出来ずにスザクはただ静観し続ける。
ルルーシュの顔にかかっていた前髪をシャーリーは慎重な手つきで払っていた。そして緊張した面持ちでそっと頭を撫でる。
起こしたくないけど触れたい。
シャーリーがそう思っていることは明白だ。
真っ直ぐに伸びた艶やかな黒髪を摘んでは離し、摘んでは離す。それでも起きる気配を見せないルルーシュにシャーリーはふふっと微笑んだ。もうすでにスザクはそんなシャーリーを素直に可愛いとは思えなくなっていた。
そしてシャーリーがルルーシュの髪を一つまみし、それを指の腹で愛しげに撫でているのを目にした瞬間、スザクの意識が飛んだ。
指に軽く引っ掛けただけの荷物がずるずると滑り、床に落下してドサッと音を立てる。
その音に文字通りシャーリーが飛び上がって驚き、さらに豪快に椅子が倒れた音にルルーシュが飛び起きた。
「えっ、えっ? スザクくん!?」
「なんだ、何事だ!?」
いつから見ていたのと焦るシャーリーと状況が呑み込めていないルルーシュに、スザクは何をどう話せばいいのかと悩む。だがすぐに生徒会の残りのメンバーがやって来たため、結局うやむやのまま放課後は過ぎていった。
***
「今日ルルーシュの髪、僕が洗っても良い?」
「珍しいな、自分の洗髪すら面倒臭がるお前が人の髪を洗いたいだなんて」
「あ、でもルルーシュも僕の髪洗ってね?」
軍属だから。
そんな理由では片付かない程、スザクの入浴時間はきわめて短い。バスルームに入ってから出てくるまでおよそ三分。着脱衣の時間を抜いたら一体何分になるのだろう。再会後はじめてスザクがルルーシュの住むクラブハウスに泊まった際、そのあまりの早さに驚いたルルーシュの苦々しく歪んだ表情は今でも忘れられない。さらに、スザクが身体のみならず顔も髪もすべて石鹸で洗っていると知った時のルルーシュの顔といったらなかった。まるで大量発生した害虫を見るかのような侮蔑と驚愕に満ちた表情だった。ハッと我に返ったルルーシュその後懇々と小一時間も説教したのだが、いくら言ってもスザクに改善する気がないと知るや「うちに泊まる時は絶対に俺がお前の髪を洗うからな!」と高らかに宣言した。それ以来ルルーシュがスザクの髪を洗うのはもはや習慣と化している。だがスザクがルルーシュの髪を洗うなんてことはこれが初めてだ。何せ自分の髪もまともに洗えない人間が他人の髪をきちんと洗えるとは思えない。
「不安だ」
「大丈夫だよ、僕に任せて」
「頭皮まで持っていかれそうな気がする……」
「いくら僕でもそれはないよ!」
以前に部室大掃除でどこぞの部屋で発掘したロッキングチェアまがいの椅子をバスルームに運び込む。だがルルーシュがそれに座った途端、さっきまで積極的だったスザクの動きが鈍った。
「やっぱり俺はいいからスザクの髪を……」
「ちょ、大丈夫だからルルーシュは大人しくしてて」
そう言いつつもスザクは中々動き出さない。
スザクは自分からルルーシュに触れることに躊躇しているのだ。
これまでもずっとそうだった。ルルーシュの側から触れてくるのは問題ないのに、スザクはルルーシュに触れることが出来ない。人を殺す感触の染み付いたこの汚れた手をルルーシュへ向けて伸ばすなんて許されないと、スザクは自分に言い聞かせ続けていた。
それでも同じくらい強く、触れたいとも思っていて――だからルルーシュのほうから接触してくるのは構わないというのはスザクの甘えだ。本当に汚したくないと思っているのならそれすら許してはいけないはずなのに。でもルルーシュには綺麗なままでいてほしいというのは紛れもないスザクの本心なのだ。
それなのに周りの人間は遠慮も躊躇いもなくルルーシュに触れる。友人同士の、ごく普通のスキンシップ。それでもスザクはそれをずるいと思った。自分がルルーシュに触れられないのはこれまでの自分の行いのせいだと分かっているのに、それでも妬む気持ちは抑えられなかった。今日のシャーリーに至っては、憎いとさえ感じた。ルルーシュに対して抱いている気持ちはシャーリーとたいして変わらないはずなのに、あの場に居たのがスザクであったら、きっとルルーシュの髪に触れることは叶わなかった。
そしてつい感情的になって、スザクはルルーシュの髪を洗うと言ってしまったのだ。
(ごめん、ごめんねルルーシュ)
心の中で深く謝罪しながらスザクはルルーシュの髪を洗い始める。特にシャーリーが触れたところを念入りに洗った。それはシャンプー程度で落ちるものじゃない。そのうえ洗っている人間が自分では、汚れが上塗りされていくだけだとスザクは思った。
それでも自分の手でルルーシュが穢れていくことをどこか嬉しいと感じる己に嫌悪する。
(キツイだけだから、もうこんなのはごめんだな)
だがきっと、この先似たようなことが起きればその都度その箇所を洗おうとするのだろう。誰であろうとルルーシュには触れてほしくない。たとえそれが自分であってもだ。
だが誰かに汚されるくらいなら、自分がルルーシュを汚す。
無意味に黒髪に指を絡ませながら、スザクは強く思った。
2011.09.04 Yu.Mishima (初出:paper#4、2009.05.03)