猫と嫉妬



「ひあっ……!」

向かいの席に座る兄の口から漏れ出た悲鳴に、ロロは目を丸くした。監視対象であり偽りの兄であるルルーシュと暮らして半年以上経つが、こんな風に彼が声を上げるのははじめてのことだった。稀に、生徒会長であるミレイにいじられる際に悲鳴をあげたことはあったが、それはもっと調子はずれな、言ってしまえば素っ頓狂な悲鳴で、色気のかけらもないものだ。

「どうしたの、兄さん」

食事の最中に似つかわしくない悲鳴に、ロロは首をかしげる。元々白いルルーシュの顔は少しばかり青ざめていて、さきほどびくりと跳ねた肩は跳ね上がったまま。僅かに震える手からはフォークが零れ落ちている。
明らかに様子がおかしい。それに対しロロが落ち着いた態度でいるのは、つい最近似たような状況に陥ったことがあったからだ。あのときはそう、台所でなめくじを発見したときだった。最初ロロはそれがなめくじだとは思わず、兄に「殻のないかたつむりがいるよ」と告げた。あのときの彼の反応と、今現在目の前の兄の反応はそっくりである。あのときは悲鳴こそ上がらなかったが、顔は青ざめ手は震え、逆に身体は石のように固まった。別段虫に恐怖心を抱いてる風でもなかったのに、なぜなめくじごときにあんなに動転したのだろう。不思議に感じたロロがあとで訊いたところ、ルルーシュは「外で遭遇する分にはいいんだが、自分のテリトリーに入ってこられるのは我慢できない」と、まるで怖いものぎらいな人間がうっかりホラー映画でも見てしまったかのような怯えた表情を浮かべていた。以来、ルルーシュは姿の見えぬ虫の存在にびくびくと怯えながらこのクラブハウスで生活している。

またしても虫でも発見したのだろうか?

それにしてはリアクションが前回よりも大きい気がする。
もしや最強とも言えるあの害虫が姿を現したとか?

するとそれまで言葉を一言も発せずにいたルルーシュがようやく口を開いた。

「な、何か、が、俺の足に触れた……?」
「えっ」

記憶を改竄されてからもエリア11贔屓の嫌いがあるルルーシュだが、玄関で靴を脱ぐ習慣はない。そして彼が現在着用しているズボンは足首まで長さのあるもので、したがって素肌は露出していない。靴や布越しでも何かが触れたことに気づいたということは、おそらく兄の足に触れた何かは、すぐそれと分かる虫の類ではないのだろう。
瞬時に考えを巡らせるとロロはすぐさま身を屈めてテーブルの下を覗き込んだ。

「あ」

「なっ、何が居るんだロロ……!」

どこか悲壮感を漂わせながら訊ねてくるルルーシュに苦笑を返す。思わず漏れた苦笑にすら怯えの反応を示す兄の様子に、ついロロは笑ってしまった。

「猫だよ」

猫?
声もなく訊き返してくるルルーシュの表情はいまだ強張ったままだ。虫への恐怖心が勝っているためか、ロロの答えが信じられないらしい。相手を安心させるように殊更大きく頷くと、ようやくルルーシュも机の下を覗き込む。目に見えてルルーシュの身体から力が抜けたのは言うまでもない。

「…………確かに猫だな」

気疲れしたらしいルルーシュの足元には、ふわふわした毛の白い猫が我が物顔で座っている。自分を見つめるふたりの視線に気づいたのか、まだ成長しきっていない小さな身体をルルーシュの足に擦り付けると「ナー」と一声鳴いた。

「なにか飲むかな?」
「猫用の牛乳なんてここにはないし……とりあえず水をやろう。ミネラルウォーターじゃなくて水道水な」

分かったと言いながらキッチンへ向かい、ロロはルルーシュの指示通りに水を用意する。キッチンに居る間に子猫は去ってしまわないだろうかと心配しつつダイニングへ戻ってくると、先ほどまでイスに座っていたはずのルルーシュが床に腰を下ろし子猫の相手をしていた。ロロは一瞬だけ兄の意外な一面を見たような気になったが、よく考えてみると乗馬練習のときの馬に対する態度とあまり変わらない。水の入った皿を床に置くと、ロロも兄の隣に腰を落ち着ける。

「耳や胸元の特徴はメインクーンのものとも思えるが、たぶんこいつは雑種だな」

メインクーンと具体的な名前が出されても、ロロにはそれが一体どんな猫なのかまったく分からない。これまで極端に動物と触れ合う機会のなかったロロは、実物の猫をこんなに間近で見るのは初めてのことだったし、写真ですらあまりよく見たことはなかった。ル
ルーシュの妹であるナナリーはどうなのだろう。猫には詳しいのだろうか。

「一体どこから入ってきたんだろうね」

ボロを出さないように話題をかえる。ルルーシュは不自然に思わなかったようで、「そうだな」と困ったように同意した。

「1度ならず2度までも入ってこられると、クラブハウスのどこかに猫の通れる出入り口があるんじゃないかと疑いたくなる」
「え? 今回が初めてじゃないの?」
「ロロは忘れたのか? 1年まえにも猫――アーサーが忍び込んで騒動になったじゃないか」

ロロはしまったと心のなかで舌打ちした。

(僕がここに来るまえの出来事か……)

おおよそのデータは事前に貰って一通り目を通していたが、そのような些事は書かれていなかった。当然といえば当然だ。猫がクラブハウスに迷い込んだことなど律儀にどこかに記録されているほうがすごい。
ボロを出さないようにかえた話題で自分の首を絞める愚かさにため息をつきそうになる。

「……うーん、よく覚えてないや。なにがあったんだっけ?」

自分の発言の軽率さに呆れつつも、度忘れを装ってロロは訊ねた。隠せなかった動揺をルルーシュはさして気にしていないようだ。もしかしたら、印象的な出来事を忘れている自分の記憶力に動揺した、と受け取ったのかもしれない。

「ほら、いつの間にやらクラブハウスに侵入していたアーサーが俺の私物を奪って逃走してさ。必死に追いかける俺を嘲笑うかのように会長が『猫をつかまえろ! つかまえた者には生徒会役員からキス!』と企画を突如立ち上げて、結局生徒全員を巻き込んだ大騒動に……そういえばロロが会長たちに言ったんだったな、アーサーのこと」

「え、そうだったっけ……」

「都合の悪いことだったから忘れてたのか?」

ひどいやつめとルルーシュは笑った。そんなに大きな企画に発展していたのだったら『生徒会主催企画一覧』の資料に書き加えておけ機情局員めろくな仕事してないなと胸の内で悪態を吐きつつも、最悪の事態を回避できたことでロロの顔から強張りがとけてゆく。
ふと視線を下に向けると、先ほどまでルルーシュの足元で戯れていた子猫が水に口をつけていた。約20センチ弱。ちょっと手を伸ばせば届く距離に子猫は居る。

「撫でてみたらどうだ?」

ちゃぷちゃぷ音を立てながら水を飲んでいる小さな後頭部を眺めていると、ルルーシュが不意にそう声をかけてきた。

「え?」
「撫でたそうな顔をしてた」
「……そんな風に見えた?」

ロロが動物に初めて触れたのは授業で乗馬を習ったときだった。相手の感情に聡い動物は予想していた以上にロロを警戒したために大分骨を折ったが、放課後や休日に兄に手伝ってもらって、なんとか馬はロロを乗せてくれるようになった。
暗殺者としての気配は取り払っているつもりなのだが、人間より何倍も鋭敏な感覚を持つ生き物たちにはお見通しらしい。みんな必ずロロを避けるのだ。だがロロは動物に対し特別な愛着を抱いているわけでもないから一々傷ついたりはしない。
だから今、子猫がロロの手を避けてルルーシュの太股のうえに逃げても(やっぱり)と納得するだけだった。

「嫌われたなロロ」

そう言うルルーシュの顔には意地の悪い笑みが浮かんでいる。ロロは別に悔しくないのだが、一応不満そうな顔を返す。そのくらいの人間性は、兄との生活のなかで培ってきた。

「だね。僕は嫌いじゃないのに」

「誰かさんと一緒だ」

「え?」

「ほら、アーサーを引き取った枢木スザク。事あるごとにアーサーに噛まれていたじゃないか。本人は猫が大好きなのに、いつも片思いだって嘆いて……それが今や帝国最強の騎士。ナイトオブラウンズに噛み付いた猫なんてアーサーくらいだろうな」

懐かしそうに目を細め、子猫を撫でる兄の姿を見て、ロロはなぜだか嫌な気分になった。おかしい。これまでの会話で不機嫌になる要素などなかったはずなのにと首を捻る。

「そういえばひどいときは1分近く腕や指に食らいついて離れなかった」

「……そうだった?」

胸のあたりがムカムカしてきた。

「腕時計で確認していたから正確だぞ。結局みんなでアーサーの気を引いて、なんとか引き離してさ」

「……覚えてないや」

眉間に皴が寄る。

「そうか。ロロは去年はまだ中等部で、頻繁に生徒会室に来ていたわけじゃなかったな。あ、でもあれは覚えてるだろう? 生徒会だけで、」

「――ねえ!」

それは無意識のことだった。

ロロは兄の発言を遮るように大声で呼びかけた。

何を言うかなんてなにも考えていない。
ただ、自分の知らない思い出話を懐かしそうに語る兄の声を聞いていたくない。
それだけだった。
勝手に口が動いていた。
そしてその結果――

「あっ」

突然の大声に驚いた子猫がルルーシュの膝上から飛び上がり、開いていた扉から廊下へと走り去ってしまった。

「………………」
「………………」

予想外の事態に思考が停止してしまったふたりの間に一瞬沈黙が落ちる。
今日は少し暑いからと、扉の電源を切って手動にし、半分ほど開けていたのだ。そのことを兄弟そろって失念していた。特にルルーシュは、足に触れた物体が猫だと分かり気が抜けていたのだろう。正体が知れた時点で扉を完全に閉めておくべきだったと後悔してももう遅い。ああ、とどちらともなくため息が漏れる。呆然とした表情で開け放たれた扉を見つめていたふたりは顔を見合わせた。

「ごめん兄さん、猫驚かせちゃって……」
「いや、それは……――嫌だったか?」
「え?」
「思い出話されるの」

自分とは関係のない思い出を語る兄の声を聞きたくないとロロは思った。だがそれがなぜなのかロロ自身よく分かっていない。
ブラックリベリオン以前の話をされると都合が悪いとは思う。大体のことは事前に資料に目を通して覚えたが、完璧ではないからだ。

(「嫌」……?)

どうなのだろう。自問してみても、答えは出てこない。

「生徒会に正式に入ってからのほうが馴染みがあるもんな。少し考えれば当然のことだ。ごめんロロ」

「そんな、謝らないでよ兄さん」

「さて、子猫がクラブハウスのどこかで排泄してしまわない内に捜しだすぞ。うまく脱出できていれば良いんだが、どこかの部屋に隠れられては面倒だ。最悪、会長についでだからと全室掃除を命じられてしまう。行くぞ、ロロ」

ダイニングを出て行く兄を、ロロは慌てて追う。廊下へ出るとルルーシュが扉の電源をオンに切り替えた。

「これでよし。猫は確かこっちの方向へ飛び出たな?」
「う、うん……」

ほら行こうと促されて、ロロも先へ進む。
ポケットに入っている携帯で機情の待機するモニタールームへ連絡を取ってしまえば子猫の行方などすぐに知れるというのに、なぜかそうする気にはならなかった。
徒労に終わる可能性も十分考えられるのに、ロロの足は歩行をやめない。そこらに子猫がいないかきょろきょろとしながら、同じ歩幅で廊下を歩く。

「子猫の体重じゃ扉は開かないから、逃げ込める場所は限られてくる。さっさと捕獲して外に放そう」

「すぐ捕まえられるかな?」

「大丈夫だ。俺が的確な指示を出すから、ロロ、おまえがんばれよ」

「ええっ」

悲鳴を上げつつも顔は笑っていることを、ロロは自覚していなかった。


2008.10.28  Yu.Mishima