イレイザー



(あれ?)

カーペットにシミのようなものを見つけて、ロロは首を傾げた。黒ずんで見えるそれは、血のようだ。それもまだ乾いていないように、ロロの目には映った。誰か怪我をしたのだろうか。だがクラブハウス内でもランペルージ兄弟の居住区内に入れる人間は限られている。シミは大きく、本当にそれが血だとしたら結構な量だ、騒ぎになっていてもおかしくない。だのに今に至るまで悲鳴のひとつもあがることはなかった。

ロロが思案しながらじっとそのシミを凝視していると、ちょうど自室から出てきたルルーシュが声をかけてきた。
「どうしたロロ、何かあったのか?」
「あ、兄さん、ねえあそこの床、」

変じゃない、と言おうとした言葉は喉でつまる。兄に視線を向けたその一瞬に、さきほどまであったはずの赤黒いシミは消えていた。

(どういうことだろう?)

「ロロ?」
「ねえ兄さん」
「ん?」
「あそこに血のシミみたいなの見える?」
「どこか怪我でもしたのか!」
「そうじゃなくて!」

苦笑しながらロロは、さっきまでカーペットの一部が汚れているように見えたことを簡単に伝える。そしてそれが血によるもののようだったことも。
するとルルーシュはおもむろに床に膝をつくと、ロロが指差した箇所に手をあてはじめた。短い毛氈に指を埋め、顔をぎりぎりまで近づけてはあちこち確かめる。
「……カーペットの色も変わってないし、濡れたような形跡もない。おまえの見間違えじゃないか?」
「うん、そうだったのかも」
あの兄が丹念に調べたのだから、間違いはない。ロロはあっさり自分の意見を翻す。実際目の前にあるのは変色した様子などない淡いブルーの敷物だった。
だが、その後兄と別れて自分の所属するクラスに向かったロロは、またしても不思議な光景を目にすることになる。







(死んでるのかな?)

前の席に座る女生徒の鮮やかな金髪は、血でぐっしょりと塗れていた。髪を伝ってぽたぽたと零れ落ちた血は、制服の背中にシミを作っている。
なんで誰も騒ぎ立てないのだろうとロロが教室に視線を巡らせていると、突然血塗れた頭が動きだした。
(え?)
驚きに目を瞠っていると、彼女は他の席に座っていた生徒のもとへ駆け寄って談笑を始める。周りどころか本人すら、血みどろの頭のことに気づいてはいない。それは明らかに異様な光景だった。
朝のことと照らし合わせて考えるに、どうやらそれは自分にしか見えないものらしいとロロが結論づける。だがなぜそんなものが見えるのかがさっぱり分からない。
こういう考え事は自分には不向きだと思いつつ、ロロは目の前にある血まみれの頭をたいして気にするでもなく、授業を受け続ける。クラスの人間と話すことなどほとんどないロロにとって、クラスメイトが血塗れて見えることなど瑣末なことだった。誰にも見えていないのなら、自分から率先して騒ぐ必要も理由もない。

鐘が午前の授業を終えたことを知らせると、ロロはすぐさま兄のいるクラスへと向かう。今日はルルーシュの作った弁当をふたりで食べる約束になっていた。
普段は生徒会のメンバーと一緒に昼食を取るのだが、ひとりで食事をすることがすっかり習慣づいてしまっているロロにとって、大勢――と言ってもほんの数人だが――で食事をすることに、半年以上経った今でもなかなか慣れない。コミュニケーション能力があまりない弟を慮ってか、たまにルルーシュはふたりだけで昼食を食べようと誘ってくる。なるべくならロロが人と接する機会を多くつくりたいようなのだが、あまり無理をさせてもロロのストレスが溜まるだけだとルルーシュが判断した結果である。別にストレスを感じることはないのだが、兄と一緒に食事をする時間はロロにとってとても大事なものだから、他人を交えずに昼休みを彼とふたりだけで過ごせるのは願ったり叶ったりだ。

わき目も振らずにルルーシュのいるクラスへ向かっている間も、ロロの視界には赤い血が入っていた。
それは窓ガラスについた飛沫痕だったり、すれ違う生徒の制服一面だったりと様々なかたちで飛び込んでくる。変だなと思いつつも、立ち止まることなくロロは足を運ぶ。自覚はないが、優先順位はおのれが見ている幻覚よりも兄のほうがずっと高かった。

「兄さん」
教室には入らずに声をかけると、ふたり分の昼食を抱えたルルーシュが笑顔で近寄ってくる。
「今日は天気がいいから外で食べよう」
スープの入った水筒を受け取りながらロロも笑顔で同意する。そしてくるりと身体を向きを変えたとき、あることに気づいた。

(また消えてる)

さっきまで廊下にあった、まるで死体を引きずったかのような血の跡が手品のようにパッと消えていたのだ。つい十数秒まえまでは確かに見えていたはずなのに。
「ねえ兄さん」
「なんだ?」
「ここに血の跡なんて見えないよね?」
「………………」

朝のときと同じように、ルルーシュはロロの指差した方向へ視線を動かす。そしてルルーシュはふさがっていないほうの手をそっとロロの額にあてた。
「熱はないな……」
どうやら風邪を引いたのかと勘違いされたらしい。やはりルルーシュにも血は見えないのだ。今現在はロロの目にも映っていないから、彼にも見えなくて当然なのだが。
「もしかして心霊現象なのかな……」
そんなことあるわけないけどと思いつつもロロがぼそっと呟くと、隣でその呟きを拾ったルルーシュの肩が目に見えてびくりと揺れた。
「いや、でもまさか、そんな……」
次いで飛び出てくるのは否定の言葉だが、先ほどよりも真剣にルルーシュは廊下に目をやる。

そういえばこの兄は自分の頭でカバーしきれないことには弱いのだったとロロは思い出す。調和を外れると途端にルルーシュのリズムは崩れる。理屈の及ばない物事に滅法弱い彼であるから、もしかしたら幽霊などの類にも弱いのかもしれない。そう思うとなんだかおかしくなって、思わず笑みがこぼれる。見咎められぬように顔を背けると、ロロは思案に耽る兄の腕を取って「もういいから、早く外に行こうよ兄さん」と言った。

昼休みのあいだ、散々ロロの視界に割り込んでいた血はまったく姿を見せなかった。しかし予鈴を聞いたのち兄と別れた途端、ふたたびそれは姿を現した。まるで怪我を負った人間が歩いた跡のように、廊下のさきまで続く血。それはロロの所属するクラスにまで伸びていて、中に足を踏み入れれば今度は斜め前の席の生徒が浴びたように血に染まっていた。

見えなくなったわけではないのだ。ただ、ある条件のもとでは、ロロの瞳にも世界は正常に映る。そしてそれはおそらく、兄であるルルーシュがそばにいること。

それは間違いではなく、実際放課後になって生徒会室に訪れたロロが兄の姿を目に留めた瞬間、執拗に行く手に現れる血は霧散した。

その後も、夕飯を食べている間や勉強を見てもらっている間はやはり赤い色が目の隅に居座ることはなかった。だが風呂に入った際には湯船が真っ赤に見えたし、兄の目を盗んで監視モニター室へ行けば、報告を待つヴィレッタの顔はかろうじて目だけ認識できるほどに真っ赤になっていた。いまも、ベッドに横になったロロのには天井から滴り落ちてくる血が見える。淡いイエローのシーツはすっかり汚れていた。
いまのところ生活に支障はないが、正直うっとうしさに辟易している。

(一体いつまでこの幻覚は僕に付き纏うつもりなんだろう)

もしかしたら今日のことが夢だったかのように、明日の朝には普段と変わらない光景が映るのかもしれない。
だが、一生この幻覚に付き合わされる可能性ももちろんある。

(さすがにこれがずっと続くのは、やだな)

瞼を閉じずに赤い天井を見つめていると、扉をノックする音が静かな室内に響いた。ロロはゆっくりと上体を起こすと扉の向こうに呼びかける。
「兄さん?」
夜分に限らず、自分の部屋を訪ねてくる人物なんて、ロロはひとりしか知らない。
案の定、少し顔を俯かせたルルーシュが部屋に入ってきた。途端に視界から赤い色彩が消え去る。ロロの口から無意識にほっと息が漏れた。
「もしかして起こしてしまったか?」
「ううん、寝ようと思ってたんだけど、なかなか眠れなくて。兄さんこそどうしたの、こんな遅くに」
「……俺もロロと同じだよ」

言い難そうな兄の言葉を聞いて、ロロの頭には昼のやり取りがぱっと浮かんだ。心霊現象という呟きに、少しばかり動揺していたルルーシュ。

まさか自分の何気ない思いつきが原因とは思えないが、それ以外は普段となんら変わらない一日だったはずだ。

ふたりはたまにこうして同じベッドで眠りにつく。それはロロが誰かを始末したときだったり、思わぬ出来事に心を揺らしたときだったり。理由は様々だったが、その根底にはいつも自分がいることをロロは知っていた。いつだって兄は弟のためを思って行動するのだ。

(僕が突然変なこと言い出したから、心配してる、とか……)

だからこうして様子を見に来たのだろうか。

「…………………」

ロロは無言のまま、ルルーシュから遠ざかるようにうしろへ身体をずらす。すると空いたスペースにルルーシュが滑り込んできた。どうやら一緒に寝ようということらしい。

(やっぱり兄さん、僕のこと心配してくれてる……)

視線で「おまえも横になれ」と促されて、ロロもすぐさま布団のなかにおさまる。横から伸びてきた手は、慈しむようにロロの頭をゆるゆると撫でてきた。
深呼吸をするように、深く息をつく。

(兄さんがずっとそばに居てくれれば、問題は解決するんだ)

たとえ幻覚が一生自分に付き纏おうとも、この兄がそばに居るかぎり大丈夫なんだとロロは思った。永遠に彼が記憶を取り戻さなければ、永遠に魔女が彼に接触してこなければ。そうしたらルルーシュはずっとロロの兄としてそばに居てくるのだろう。
だけどそれは到底無理な話だとロロも十分分かっている。

(それなら、せめてこの時間が長く続けばいい)

ルルーシュの立てるかすかな寝息を間近で聞きながら、ロロは目を涙で滲ませた。その涙すら兄が自分に与えたかたちのないもののひとつなんだと思うと、さらに涙は溢れ出てくる。枕に顔を押し当ててそれを拭うと、ロロは眠りにつくために兄の身体に身を寄せて、そっと瞳を閉じた。










兄であるはずの人間に銃口を突きつけられてもなお、ロロの目は世界を正常に見せている。扉を開けて入った瞬間、視界に飛び込んできた惨劇を思わせる血しぶきの跡は、ルルーシュの存在を認識した途端に跡形もなく消えた。
そして目の前にいる人間がもはや自分の兄などではなくなってしまったとはっきり分かっても、ロロの視界に赤い色彩は入ってこない。てっきりルルーシュがロロの兄でなくなった瞬間に、またあの幻覚は姿を現すのだろうと思っていたロロからすると、それは皮肉以外のなにものでもなかった。
奪い取った銃を、ギアスにかかったルルーシュ・ランペルージの後頭部に突きつける。
真っ赤な血は、それでもまだ見えない。


2008.05.02  Yu.Mishima