Commedia Romantica 1 サンプル



Act.1 青天の霹靂(序盤抜粋)


東京都豊島区池袋。日本有数の繁華街であり、山の手三大副都心のひとつである。高層ビル群も有する華やかで賑やかな街だが、隅から隅まで都会めいている訳ではない。一日の平均利用者数が新宿に次いで世界第二位である池袋駅の近くにも住宅街は広がっているし、昭和の香り漂う古びた建物も数少なくない。
竜ヶ峰帝人の住むアパートもそんな建物のひとつで、築年数の見当がつかないくらいに古めかしい外観をしている。そのうえ部屋は四畳半一間に風呂なし。隣の部屋に至っては三畳一間で、何と東京拘置所の独居房と同じ広さである。池袋駅から歩いて数分という好立地条件にも関わらず家賃が相場よりも安いのは、立地の良さが霞むほどの悪条件が揃っているからだ。ボロくて狭くて風呂もないとくれば、大抵の人間――特に女性は敬遠する。
とは言え借り手がまったくつかない訳でもないのだが、何分このアパートを管理している大家の老夫婦がしっかりした人物である為、入居者の選別が厳しいのである。身元不確かな人間には絶対に部屋を貸さないし、家賃を滞納する恐れのある人間にも勿論貸さない。
そして帝人は去年、この厳しい選別を見事にくぐり抜けた。未成年、それも女子高生の一人暮らしという事で最初は色々と心配されたが、一週間に一度大家夫婦宅へ顔を見せに行くという約束のもと、契約は成立した。
名前こそ男性的でごついが、竜ヶ峰帝人はれっきとした女性である。
非凡なのは名前くらいなもので、その他は何を取っても平凡そのもの。容姿が特別優れている訳でも、スタイルが格別良い訳でも、人並み外れた明晰な頭脳を持っている訳でもなく、ましてや運動能力に恵まれている訳でも強運の持ち主である訳でもない。だからと言って取り立てて言うほど影が薄い訳でもないのだが、集団の中では目立たずに確実に埋没してしまうような存在だ。
そんな帝人だが、自身の平凡さに反して、一癖も二癖もある人物になぜか非常にモテる。
性格に難のある人物やら、特殊な性癖を持つ変態やら、何らかの能力に特別恵まれ過ぎている人物やら、対人スキルが低くコミュニケーション能力に問題がある人物やら――とにかく普通、一般というカテゴリに当て嵌まらない変り者によく好かれた。要するに帝人は変人キラーなのだ。ちなみに年齢も性別も問わないし、犯罪者も含まれる。
しかもただ好かれるだけではなく、その変人らによって引き起こされた面倒事、厄介事に必ずと言っていい程巻き込まれる。
相手に一方的に好意を抱かれるだけならまだしも、その好意を押し付けられ、同じくらいの好意を返すことを強要されるのは毎度の事。恐ろしい事に、女子だけで「あの子と私のどっちが大事なの! ?」という修羅場を体験した事も少なくない。その中には担任教師どころか学年主任までもが仲裁に入るレベルのものまであった。
正臣が埼玉に居た頃は、彼が間に入ってくれた事もあって、目立った揉め事はそこまで多くはなかったのだが、正臣が池袋へ引っ越してしまってからの帝人の中学時代は苛烈をきわめた。
学校では問題児ホイホイとして名を馳せ、先生たちからは真面目な生徒として認識される一方で帝人自身も問題児扱いされていた。
帝人としては大変不名誉であったが、何せ中学二年の頃に一度、帝人が原因で刃傷沙汰にまで発展してしまった事があったのである。幸いにも怪我人は出ず、大事には至らなかったが、『竜ヶ峰帝人は要注意人物』という噂は瞬く間に学校中に広がった。
他にも、問題児たちによる不祥事は跡を絶たず、平凡な人間にはおおよそ縁がない筈の波乱に満ちた中学時代を帝人は過ごした。
帝人にとってはなんとも苦い思い出だ。
非日常的な出来事に人一倍惹かれる性質ではあるが、非常識な変り者に殊更好かれたいとは微塵も思っていないし、何より彼らのせいで自分が不当に不利益を被る事が大嫌いなのである。毒にも薬にもならない差し障りのない凡庸な人間と思われるのも、それはそれで微妙ではあるが、まだそっちのほうがマシだ。
自分の行いのせいで己の評価が下がるならともかく、自分以外のものが原因で不必要に評価を下げられるのは頂けない。
帝人が池袋にやって来たのは単純に都会への憧れがあったからだが、その一方でこれまでの人間関係を清算する為でもあった。
上級生も同級生も下級生も、そのほとんどが県内の高校へ進学する。わざわざ県外の高校を受験する生徒なんて滅多にいない。そして帝人の通学圏内にある高校のどこを受験しても、これまでに多少なり縁があった問題児の誰かが居る可能性があった。
地元の高校へ進学すれば、まず間違いなく中学時代の二の舞を演ずる事になる。
そうして進路に悩んだ帝人は、池袋に引っ越した正臣の誘いを受け、池袋の私立校を受験すると決めた。
その頃帝人にくっついていた問題児たちは帝人の進路を執拗に聞き出そうとしていたが、帝人は友人らにも決して自分の進学先を教えず、先生たちには箝口令を敷いてどうにか無事に地元を脱出した次第である。帝人の両親は娘の特異体質とも言える変人ホイホイぶりをそこまで詳しくは知らなかったので、県外の高校へ進学する事に関してはあっさりと許可した。もしも知っていたら、見知らぬ土地での一人暮らしなんて危険だと言って全力で止めていただろう。
問題だったのは住む場所である。両親には女子寮やシェアハウスに住んではどうかと提案されたのだが、何か揉め事が起きた場合、他人との共同生活はデメリットでしかない。両親としては、娘が一人暮らしをするよりも誰かと暮してくれたほうが安心出来るのだろう。だがしかし、変人キラーとしての自覚があり、そのせいでこれまで苦い思いをしてきた帝人にとっては見知らぬ他人との同居なんて論外である。中学の時のように刃傷沙汰でも起きたりしたら洒落にならない。
そんな訳で、どうにかこうにか探し出したのがこのアパートである。
セキュリティのセの字もない老朽化したアパートに暮らす事を両親は猛反対していたが、竜ヶ峰家の財政や大家夫婦の人柄を考慮に入れた上で、最終的に何とか頷いてくれた。ただし毎晩実家に電話する事と、何か問題が起きたら即座に実家に戻る事を約束させられている。ここでの生活ももうすぐ一年になるが、毎晩の電話は欠かしていない。
地元を出て池袋に来たところで体質は変わらない。ましてや池袋には地元よりもずっと多くの人々が居る。絶対数が多いのだから、「普通」から逸脱した人間が数多く存在しても何らおかしくはない。
だから、両親の反対を押し切って始めた一人暮らしだったが、池袋に越した当初は正直、期待と同じくらいに不安や心配も大きかった。一年近く経った今でも、まったく不安を感じていないと言えば嘘になる。
だが池袋には幼い頃からの親友である正臣が居るし、池袋で知り合った人々はどこかしら変わってはいるものの、皆良い人たちばかり。しょっちゅうトラブルに巻き込まれたり、警察沙汰一歩手前な事態に遭遇したりしても、地元に帰りたいとは一度も思わなかった。むしろ、両親に問題が発覚して家に連れ戻されるような事態になったらどうしようという不安のほうが大きい。
もうあと一週間ちょっともすれば、池袋での生活も二年目に突入する。
何事もなく無事に一年を過ごせたとは断じて言えないけれど、二年目もこれまでと同様に、家に連絡されるようなレベルの事件など起きませんように――。
終業式を目前に控えた最近は、この一年で体験した様々な出来事を思い返しながらそう祈る毎日である。

 ――そんな矢先の出来事だった。


         ***


目覚ましに設定している着信メロディが鳴っている事に気づき、帝人は目を瞑ったまま手を伸ばして目覚ましを止めた。
一応目を覚ましはしたものの、まだまだ眠くて中々目が開かない。起床時間はいつもと変わらないのについ夜更かしをしてしまったせいだ。「んんー……」と、声を発する事で自らを起こそうとするが、寝起き特有の気の抜けた声しか出てこない。このままではうっかり二度寝をしてしまいそうだ。だが実家で暮らしていた頃と違って、二度寝に入ってしまった自分を起こしてくれるような人間はこの場にはいない。自力で起きるしかないのである。
(……いい加減、起きなきゃ……)
帝人はようやく重いまぶたを開け、そして――目を疑った。
四畳半のこの部屋には帝人しか住んでいないのに、目の前に人の顔がある。帝人に向き合うようにして横になっているのだ。
それは、朝っぱらから活動的な幽霊……などではなく、情報屋の折原臨也。

帝人と目が合った瞬間に笑いかけてきたこの男は、帝人に執拗に付き纏う、いわゆるストーカーである。

帝人には心当たりなどこれっぽっちもないのだが、いつの頃からか臨也は帝人への好意を隠そうともせずに、公然と付き纏うようになった。情報だけなら帝人が埼玉に居る時から集めていたと言うのだから、年季が入っている。
だが帝人は、常日頃から人間愛を謳っている男からの求愛などちっとも真に受けていなかった。周りの人間がどれだけ帝人の危機感を煽ろうとも、「え、冗談ですよね?」と一笑に付していた。
折原臨也という男は性格こそ最低で最悪だが、それさえなければ非常にハイスペックな美青年なのである。道端に立っているだけでモデル並みの美女を釣る事も余裕な男が、敢えてこんなちんちくりんに言い寄る意味が分からないというのが帝人の正直な気持ちだった。
残念なイケメン、の「残念」の部分こそが重要である事を帝人は失念していたのだ。
そして放任した結果、臨也による求愛行動はどんどんエスカレートしていった。
所構わず愛を告白してくるのはいつもの事(往来で叫ばないだけマシかもしれない)、盗撮写真は日に日に増えてゆき(わざわざ帝人に「すごく可愛く撮れた」と見せに来る)、たまに日用品を盗んでゆく(幸いにも下着や箸や歯ブラシを盗まれる事は一度もなかった)。餌付けは基本中の基本と言わんばかりに帝人によく食べ物を与えてくるし、学生が持つには身分不相応な高価な品物までたいした理由もなくぽんと贈ってくる。
そしてどうやら朝から晩までの行動もほとんど把握されているようだった。外出をすれば出先で臨也と鉢合わせるか、後になってどこどこに行ってきたでしょと確認されるのがその証拠だ。その為、ひとりで夜道を歩いていて、酔っ払いや妙な輩に絡まれてしまった時なども、絶妙なタイミングで助けに来る率が非常に高い。
他にも携帯電話の通話記録からメールの内容、ネットの閲覧履歴に至るまで臨也には筒抜けらしい。見られて困るようなやり取りなどしていないから、これも「まあいいか」で帝人は流していた。臨也には帝人がダラーズを管理している事はとっくの昔に知られている。それにダラーズ関連のメールや隠しておきたい情報には厳重にロックをかけていて、臨也もこれを無理に解こうとはしなかった。
だから大きな問題など起きないと帝人は思ったのだ。
だがひとつ誤算があった。
それは、ここまでされてもまだ冗談だと思っていた臨也の好意が本気だった事だ。
また、帝人は思い違いをしていた。
個に固執せず人間という種に対する愛を謳うくらいであるから臨也は嫉妬とは無縁なのだろうと思っていたのだが、無縁どころか臨也は驚く程独占欲が強く、焼きもち焼きであった。
つい先日の事である。臨也と犬猿の仲である平和島静雄とメールのやり取りとしている事を臨也に知られ、何と帝人は新宿の事務所に連れ込まれた。そこで臨也に「帝人くんは俺の気持ち知ってるくせに何であいつと仲良くしてるのかな? 俺に嫉妬させるのが目的だったんだとしてもちょっと許せそうにないんだけど。いくら言葉を尽くしても分かってくれないなら、身体に言って聞かせるしかないよね。帝人くんには俺だけだって、さ」と責められ、『あ、これ詰んだ』とどう足掻いても回避不能なバッドエンドを前にして帝人は死をも覚悟した。
拉致に加え強姦・監禁までされそうになったものの、清い身体のまま無事に池袋に帰還出来たのは、臨也の秘書をしている波江のおかげである。あの場に偶然波江が居合わせていなかったら帝人は確実に食われていたし、今でも監禁生活を送っていた事だろう。そんな想像が容易に出来る程、帝人に迫る臨也は本気だった。さしもの帝人も、この一件を冗談の一言で済ませる事は出来なかった。
そんな訳で、臨也からの好意を帝人が真剣に信じざるを得なくなったのはつい最近の話。親友の正臣からは「遅い!」とこっぴどく叱られた。ついでに先日の一件を知られて本気で泣かれてしまった。そういえば正臣は初めから「あの人には絶対にかかわるなよ」と警告を発していたのだった。それなのに帝人は何の対策も講じずに成行きに任せていたのだから、正臣も報われない。一時間以上に渡る説教の間帝人はずっと正座を強いられていたのだが、自業自得である。

厄介な体質持ちでありながら、池袋に来てからの帝人には危機意識が足りなさ過ぎた。
一年近く経過した今頃になって意識を改めたところで遅いのは、現在の状況からも明らかだ。

(え? 何? 夢?)
夢は夢でも、悪夢の類だ。
起きたら目の前にストーカーの顔があったのだから、そう思うのも無理はない。
出来る事なら夢であってほしい。だってどう考えてもこの状況はおかしい。
臨也に合鍵を渡した覚えもなければ自分が部屋へ引き入れた覚えもない。彼はここに居る筈のない人間であり、これが夢や幻覚ではなく現実に臨也がこの部屋に居るとするなら、間違いなくそれは臨也の不法侵入である。
その上なぜ自分の横で寝ているのか。なぜ同じ布団に入っているのか。
下手なホラー映画よりもよっぽど恐ろしい現状に混乱する帝人の頭に『警察』の二文字が浮かんだ。携帯は手を伸ばせば届く位置にある。だがここで一一〇番してしまったら完全に実家へ強制送還コースだ。それは帝人の望むところではない。
だったら静雄に通報するのはどうだろうかと考えが、先日の一件が頭をかすめ、即座にその案を却下する。臨也を撃退する最善策であるのは確かだが、今ここで静雄に連絡しようとすれば最悪の事態に発展する事間違いなしだ。
まあそれ以前に、帝人が携帯に手を伸ばそうものなら、その動きに気づいた臨也に先に携帯を奪われてしまうだろう。
「帝人くん、おはよう」
「……お、はようございます、いざやさん……?」
どうしていいか分からず、とりあえず帝人は挨拶を返す。起きたばかりだから声が出にくく、帝人が発した小声は掠れていて、口調は舌足らずなものになってしまった。
「寝起きの声可愛い! あっ、目覚まし止めた後のうなり声もふわふわした可愛い声だったよ。帝人くんは寝起きだと声のトーンが少し上がるんだね。電話に出る時の余所行きの声のトーンに近いかも」
他人の家に不法侵入したにもかかわらず、臨也は悪びれる様子もなく嬉しそうに顔を綻ばせている。
ぞわ、っと帝人の肌が粟立った。
「あ、あの、臨也さん? 僕、髪は短いし、胸はないし、一人称は僕だし、帝人なんて男っぽい名前ですが、これでも一応女子ですよ……?」
そう言いつつも帝人はむしろ、臨也が帝人の性別を勘違いしてくれている事を期待していた。女子高生が寝ている布団に潜り込んでくるような危険な男よりも、自分の性別を勘違いしていた失礼な男のほうが、帝人としては幾分かマシに思えたのだ。まあ、帝人が本当に男子高校生であったとしても、自宅に不法侵入した揚句布団にまで潜り込んでくるような男はやはり危険でしかないのだが。しかし起き抜けの頭ではそこまで考えが及ばなかった。
そして当然ながら、職業情報屋のストーカーが、ストーキングの対象の性別を間違えるなんて失態を演ずる筈もない。何せ、『帝人くんの生まれた時刻から出生時の体重まで知ってるよ』と言った男である。帝人ですら知らない帝人の情報を臨也はばっちり掴んでいるのだ。性別を間違えているなんてミラクルを期待するだけ間違っている。
「もちろん知ってるよー。ふふっ、帝人くんの寝顔すごく可愛かった」
どれだけ見てても飽きないね、と臨也は笑う。
一体いつから臨也はここに居たのだろうか。非常に気になるが恐ろしくて訊くに訊けない。もしもこれで『かれこれ三時間前からここに居るね』なんて答えられでもしたら、心の均衡を保てなくなってしまう。たとえそれが冗談であっても。
もう季節は春だというのに、帝人の体は小さく震えた。
「あれ? 帝人くん震えてる? 寒いの? 俺があっためてあげようか?」
そう言って臨也がにじり寄って来たので、帝人は悲鳴を上げて臨也から距離を取った。
「こっち来ないでください! て言うか早く布団から出てください!」
「ええー」
帝人の拒絶に臨也は不満げに眉間に皺を寄せる。
「警察呼びますよ」
「呼べるものならどうぞご自由に」
臨也がこうも余裕なのは、帝人には今ここで警察を呼べない事情があると分かっているからだ。分かっているから、平気で帝人を挑発する。「くっ……」と帝人は歯噛みして悔しがるが、まるで小学生同士のやり取りである。
だが帝人は本来ならばこんな悠長な事をしている場合ではないのだ。
今日は週の半ば、水曜日。
明後日には終業式で春休みはもうすぐそこだが、今日も明日も平常授業が行われる。それに今日の一限目は体育なので、ジャージに着替える時間も必要だ。
帝人は枕元に置いていた携帯で現在の時刻を確認し、飛び上がった。このまま臨也の相手をまともにしていたら確実に遅刻する。
苦手な体育であるからこそ帝人は遅刻したり休んだりする訳にはいかないのである。たとえ実技試験の成績が低くても、きちんと毎授業出席して『真面目に授業受けてますよ』と地道にアピールをしていればそれなりに良い評価を貰える。今年度の成績は既につけられているだろうが、来年度の成績に響いてはいけない。池袋で一人暮らしをしていようと勉強はしっかり出来ると両親を説き伏せて池袋に出てきたのだから。
体育だけなら両親も見逃してくれるが、体育の成績が悪ければ悪いほど、通知表に載せられる総合順位も落ちてしまう。教科ごとの成績ももちろんだが、総合順位だって両親はしっかりチェックしているのだ。足を引っ張っているのが体育だと知っていても、それとこれとは別問題だと言ってくるだろう。何だかんだで一人娘が心配なのか、帝人の両親は何かにつけて娘を地元に呼び戻そうとする。
そして帝人はそんな両親に体の良い口実を与える訳にはいかないのである。
よっぽどの理由があるならまだしも、こんなしょうもない事で体育を欠席して成績を落とすなんてありえない。
だが今ならまだ朝食を用意して食べるだけの若干の時間の余裕がある。
「臨也さんさっさと起きてください。僕が学校に遅刻しちゃいます」
名残惜しそうにしている臨也を無理やり布団から追い出すと、手早く布団を畳んで部屋の隅に寄せた。
「今から制服に着替えるんで出てってくれます?」
「あ、俺の事は気にしないでくれていいよ。どうぞ俺に構わず帝人くんは着替えて」
「言い方変えますね。さっさと出てってください」
帝人はげっそりしながら、臨也を今度は無理やり玄関から追い出して鍵を掛けた。既に不法侵入されているのだから鍵なんて掛けたところでまったくの無意味である事は分かっている。だからこれは着替えの間は絶対に入ってくるなという単なる帝人の意思表示だ。着替えの真っ最中に臨也が扉を開けない保証はない。むしろ嬉々として突入してきそうである。逆に、このまま諦めて立ち去るなんて可能性はゼロに等しい。
心配になった帝人は普段よりも時間をかけずに素早く着替えを済ませるが、案に違って臨也が部屋に入ってくる事はなかった。こんな事なら着替える前に顔を洗っておけば良かったと後悔しながら制服姿で顔を洗い、歯を磨く。
臨也が施錠を解いて玄関を開けたのはそんな時だ。
「あれ? いつもより着替え終わるの早いね」
どうやら臨也は帝人が着替え終えるだろうギリギリのタイミングを狙って鍵を開けたらしい。どうして臨也が帝人の着替えの所要時間を正確に知っているのだろうか。
ぞっとしたが、深く考えるのはやめてスルーする事にした。これまで多種多様な変人、問題児を相手にしてきた帝人のスルースキルは中々に高い。
だがもうひとつの問題、鍵の開け方に関しては流す訳にはいかない。今日のような調子で今後も不法侵入を繰り返されたら堪らないからだ。対策を練る為にもその方法を知る必要がある。方法が分かったところで対処しようがない場合もあるが、その時はその時だ。
「臨也さん、どうやって鍵を開けたんですか?」
クラスメートの張間美香のようにピッキングでもしたのだろうか。臨也ならそのくらいのスキルを身に付けていても不思議ではないように思える。専用の道具も一式揃えていそうだ。
すると臨也はジャケットのポケットに手を入れ、何かを掴むと、それを帝人の眼前に突き付けた。
「じゃーん合鍵!」
「 ! ? 」
次の瞬間、帝人は素早く右手を繰り出して鍵を奪おうとするが、臨也に軽く躱されてしまう。この調子では臨也から鍵を奪えそうにない。
帝人には臨也に合鍵を渡した覚えなどないので、臨也が勝手に作ったのだろう。ピッキングよりも最悪だ。これでは出入り自由ではないか。ストーカーに合鍵。まるで鬼に金棒のようである。ちょっと単語を変えただけでこうまで酷い慣用句になろうとは……。
そこで帝人はある恐ろしい考えに思い至り、ハッと息を呑んだ。
「臨也さん、まさかとは思いますが、ここに隠しカメラなんて仕掛けてませんよね……?」
この部屋に自由に出入り出来るのなら、臨也が帝人の留守中に隠しカメラを仕掛けていても何らおかしくない。
恐る恐る尋ねる帝人に、臨也は「そんなまさか」と言って笑った。
「帝人くんは女の子なんだから隠しカメラなんて仕掛けないよ」という言葉に帝人は安堵の息を漏らす。悪質なストーカーとは言え、臨也はそこまで道を踏み外してはいなかったようだ。良かった良かったと身体から力を抜いた。
だが、ホッとしたのも束の間――

「仕掛けてるのは盗聴器だけだし」

 帝人は臨也を殴打した。


book-06 sample 2012.08.13 Yu.Mishima