切り離された三つの世界サンプル



1すばらしい日々(日々也×帝人♀)


少女は深い深い眠りに就いていた。

その眠りが徐々に覚醒へ向かい、浅いものに変化するにつれ、少女は夢の中をさまよい歩き始めた。夢を見た時特有のふわふわした足取りで、濃い闇の中を進む。自分が前へ進んでいるのか、それとも後ろへ戻っているのか、上へのぼっているのか、下へさがっているのか、何ひとつ分からないまま足を動かす。これは夢だという確信があるからだろうか、不思議と暗闇は怖くはなかった。
すると、ただ真っ暗だった空間に見知った光景が流れてくるようになった。すべて少女が池袋にやって来てからの光景だ。波のように混沌が寄せては返す。

(――くん)

名前を呼ばれた気がして少女は振り返る。けれど後ろには誰もいない。それどころか何もなかった。ただ闇が広がっているだけだった。首を傾げ、きょろきょろと視線を巡らす。声はもう聞こえなかった。
再びの混沌。今度は何百枚という写真を一斉にばらまいたようだった。様々な記憶にきらきらと光が散っている。
そして世界が暗転した。
深い水底から水面に浮上するみたいに、眠りがさらに浅くなる。
そこで夢は風景を持つようになった。
高校からの帰り道が闇を塗り潰す。
いつもの交差点で友達と別れた後、ひとりで歩いている場面。少女の意識が夢の中の少女の姿と重なる。薄いレースのカーテン越しに世界を見ているようだった。オレンジ色に燃える太陽が段々とビルの陰に隠れてゆくのを目にしながら、夢の中の少女は歩き慣れた道をゆく。翳んだ視界は夢の中の少女には関係ないらしい。やがて、時代錯誤なアパートが見えてきた。少女がひとりで暮らしているアパートだ。いつか抜けるんじゃないかと不安な外階段をのぼり、部屋の鍵を開ける。夕日が差し込んだ室内は深いオレンジ色に染まっていた。あまり物がない少女の部屋は、黄昏時だとその物淋しさが際立って見える。
脱いだ靴を揃え、今時珍しい四畳半の狭い部屋にあがった。いつも通り鞄を床に置き、パソコンの電源を入れる。
(だめ……)
ここでなぜか少女の視界は真っ黒なパソコンのディスプレイに占領された。机も窓も壁も目に入らない。
(だめ、離れないと……)
同時に、薄いレースカーテンが取り払われる。鮮明な黒が視界を覆う。
(だめ、パソコンから離れないと……)
起動に伴い、真っ黒だったディスプレイの色が少しばかり明るさを帯びた。
その瞬間だった。
(逃げて!)

ディスプレイから男の手がにゅっと伸びてきた。

少女の視界がぶれる。


         ***


  少女、竜ヶ峰帝人はそこでハッと目を覚ました。
まるで自分に向って伸ばされた手から逃げるように。
だが帝人には、一体なんて夢を見てしまったのだろうと夢の余韻に浸る暇はなかった。
目を開いたら人の顔が眼前にあったからだ。
あまりに近すぎてそれが誰なのか判別出来ない。
仰向けで寝ている自分を覗きこむにしてはいくらなんでも距離が近すぎる。
驚きのあまり身体がびくっと跳ねたことで帝人はようやく気づいた。自分の唇が塞がれていることに。
(えっ、何……! ?)
咄嗟に目の前の人物を腕で突っ撥ねようとするが、流れるような動きで両手とも繋ぎ合わされてしまう。いわゆる恋人繋ぎと呼ばれる繋ぎ方で、手袋に覆われた手は帝人の両手の動きをあっさり封じた。
身体を必死に捩り顔を動かすと、一瞬だけ帝人の唇は柔らかな圧迫から逃れることが出来た。けれどすぐにまた唇を塞がれてしまう。そういえば目の前の人間の両手もまた自分同様使えないはずなのに、なぜ唇が塞がれているのだろう。一体なにで塞いでいるのだろう。まだ寝惚けているままの頭では答えを弾き出すのにちょっとばかり時間がかかった。
(嘘、もしかしてキスされてる! ?)
自覚したと同時に厚い舌が閉じた唇の間から無理やりねじ込まれた。反射的に帝人は目を瞑る。現実から逃れようとしての無意識の行動だったけれど、キスがそこで終わる訳もない。
寝起きでうまく頭が回らない帝人の口内を、その舌は執拗に荒らす。キスの経験がまったくない帝人は翻弄される一方だ。絡めてこようとする舌から逃げられない。良いように口内を弄ばれ、舌を吸われては、びくびくと身体を震わせる。
唾液の交わる独特の音は帝人の羞恥心を大いに刺激した。耳慣れないこの音を立てているのは自分なのだと思うと頭がどうにかなってしまいそうだった。顔は真っ赤だけれど、頭の中は真っ白だ。初めてのキスは帝人からまともな思考力を奪っていた。どう抵抗すればいいのかが分からない。
うまく息が出来ないことでますます思考力は落ちる。苦しい、と思った。いったんそう思ってしまったら、その言葉ばかりが頭の中を駆け巡る。
(も……、むり……っ)
唇の端からどちらのものとも知れない唾液が零れて頬を伝ったところで、ようやく帝人は自分の口内を蹂躙する舌を噛む決意をした。けれど、いざ噛もうとしたその時に舌も唇も離れてしまった。目蓋の裏が光で透ける。
「っ、はっ、はあっ、っ」
酸素を求めて喘ぐ帝人の頬を上質な皮手袋が優しく撫でた。今まで散々自分の唇を貪っていた誰かの手だ。その誰かを視認することに、帝人は本能的に恐れを抱く。このまま目を閉じていたかった。これは夢のひとつで、何かをきっかけに現実の自分が目を覚ますのではないか……。
けれど無情にも帝人の意識はどんどんはっきりとしてくる。
そのうえ頬だけでなく、人差指と中指で唇を撫でられた。その柔らかい感触を手袋越しに楽しむように何度も指が唇の上を行き来する。
またキスをされてしまうのではないだろうか。
恐怖で身が竦むがしかし、帝人は上半身を起こし、頑なに閉じていた目を恐る恐る開く。眩しい陽光に目が眩んだ。
ぱちぱちと瞬きを繰り返して眩しさに慣れると、自分が居る場所が広大な花畑であることが分かった。地平線の先まで広がる花畑には色とりどりの花が咲き乱れている。そのさらに先にはいくつもの山の連なり。ここまで雄大な自然は帝人の実家がある田舎でもお目にかかれない。当然、こんな場所に足を運んだ覚えはなかった。ここがどこなのか見当もつかない。
では、隣にいる人間は一体誰なのだろう?
帝人は視線をゆっくりと自分にキスしていた人間に向ける。
そこにあったのは何と、見知った顔だった。
「臨也さん……! ?」驚愕で声がひっくり返る。
スッと伸びた人差指が黙れと言わんばかりに帝人の唇に触れた。指を押し当てられた帝人は思わず口を噤んだ。
「君の口から他の男の名前は聞きたくないな」
やんわりと言って聞かせるその声はびっくりするくらいの怒気を孕んでいた。それだけじゃない。彼の纏う空気が一瞬にしてひんやりと冷たいものに変わった。穏やかな陽光の下にいるというのに帝人は寒気を感じる。ナイフの切っ先を首に突き付けられたような感覚だ。
怒りの矛先から逃れたい一心で、訳も分からないまま帝人は小さく頷く。
彼は満足そうに笑うと帝人の唇から人差指を離した。
「俺の名は日々也。この国の王子だよ」
王子という単語に帝人は目を丸くする。
よくよく落ち着いて見てみると、帝人が臨也だと思った人物は何とも奇妙な装いをしていた。
頭上には、日の光を受けてきらきら煌めく冠。金色のマントを羽織った下には白を基調とした衣服が見える。なるほど自分の隣に腰を下ろしている彼の恰好は王子然としている。帝人の知る折原臨也とはかけ離れていた。コスプレとは思えなかったのは、その衣装が安っぽく見えなかったからだ。
けれど見れば見るほど、目の前の男は臨也としか思えない。
整った顔立ちも、青空のようだと感じた声も、臨也そのものだ。座っているため確信はもてないが、おそらくは背格好も変わらない。
それなのに彼は日々也と名乗った。
(名前まで似てるけど……)
これは一体どういうことなのだろう。身を固くし口を噤んだままの帝人の手を、彼は恭しい所作で取った。
「はじめまして。これからよろしくね、俺のお姫様」
そう言って彼は帝人の手の甲に口付けた。
「ひえっ」
短い悲鳴をあげて帝人は手を引っ込める。
「お、お姫様って、何を言ってるんですか……! ?」
帝人はそこで、自分の着ている服が彼同様奇妙なものであることに気づいた。足を覆い隠すふんわりと裾が広がった白いドレスは、それこそお姫様が着るような類のものだ。ファッションにこだわりがないしドレスなんてまったく馴染みがないが、それでも自分の着ている物が庶民には手の届かないような物であることは分かった。シンプルながらも凝らされた意匠。金糸や銀糸で施された細かな刺繍。至るところに散りばめられた宝石はもしやダイヤモンドではなかろうか。胸元の布地に触れてみて、その手触りの良さにも驚いた。
大体なぜ自分で着た覚えのないドレスを身に纏っているのだろう。
キスのせいで赤くなっていた顔がどんどん青ざめてゆく。自分の置かれている状況が把握出来ず、帝人は不安に襲われる。
「あのっ、違います! 僕はただの一般庶民です!」
「君の着ているドレスは到底一般庶民には手の届かないものに見えるけれど」
「おかしいと思われるかもしれませんが、自分で着た覚えがないんです」
「女官たちに着せられたんだろう?」
身分の高い人間なら当然のことだと言われ、帝人はますます顔色を悪くさせる。
(どうしよう、話が通じない)
帝人は焦った。自分が今置かれている状況を正しく知るためにもまずは誤解を解きたいのに、彼の勘違いは加速する一方だ。
いっそのこと誤解の元となっているドレスを脱いでしまおうかと帝人は思ったがどうにも脱ぎ方が分からない。そして気づきたくなかったのだが、どうやら下着も自分が普段使っている安物とは違うらしい。わざわざ確かめなくても分かるくらいその違いは明らかだ。ショーツはまだしも、胸元や腰の異様な違和感から、自分が身に付けているのがブラジャーでないことがはっきり分かる。当然着方も脱ぎ方も帝人は知らない。そもそもそれが何であるのかさえ知らない。
ゾッとした。誰かが帝人が眠っている間に着替えさせたのは明白だ。
でも、誰が、どんな目的で?
「とっ、とにかく僕はお姫様なんかじゃありません!」
自棄になって帝人は大声で叫んだ。あまりに非現実的な事態に直面したせいで中々冷静になれない。
僕の言うことを信じてください、お願いします。身を乗り出して帝人は訴える。
日々也と名乗った王子はそんな帝人とは対照的に落ち着いていた。
王子と呼ぶに相応しい柔らかい笑みを浮かべ、取り乱す帝人の顔を覗き込んできた。先程のキスが頭を過って帝人は咄嗟に身を後ろへ引き胸を反らせる。すると今度は日々也のほうが帝人に向かって身を乗り出した。彼は今まで浮かべていた笑みを取り払い、真顔で帝人を見つめてくる。見慣れたはずの顔の見慣れない真面目な表情に虚を衝かれ、帝人は言葉を呑んだ。なぜか目が逸らせなかった。思わず無言のまま見つめ合う。
沈黙を破ったのは日々也だった。
「君はお姫様だよ」
真面目な表情のまま、彼はそう断言した。
「なっ……」きっぱりと断言され、帝人は絶句する。「何言ってるんですか……」
「王子の口付けによって目覚めるのは、古今東西姫君と相場は決まっている」
そう言って日々也はにっこりと微笑んだ。
「いやちょっとホントに何言ってるんですか! ?」
見知った顔が自信満々に言うものだからいつもの調子で思わずつっこんでしまった。状況が状況でなかったらつい見惚れてしまうような笑顔だったが、今はそんな場合ではない。
たしかに童話には、王子様のキスでお姫様が眠りから覚めるという展開のものがいくつかある。けれど帝人は魔女の呪いで眠っていた訳でも、ましてや毒りんごを食べて眠っていた訳でもない。
(でも、そう思っているのは実は僕だけで、本当は魔女のせいで昏睡してたとか…………いやいやそんな、それこそあり得ない。でも、だったらこの状況は? これは夢じゃない。夢みたいにぼんやりしたものじゃない。紛れもない現実だっていう実感がある)
黙ったままぐるぐると考え込む帝人の背中にそっと手が回された。



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2 psychedelic dreams(サイケ×帝人♀)


「帝人くん!」
突然背中に衝撃を感じ、帝人は舌を噛みそうになった。
「帝人くん会いたかった!」
背中に突撃をかました人物はぎゅうぎゅうと帝人を後ろから抱き締めた。突然抱きつかれた驚きと恐怖で身体が硬直するが、それ以上に帝人は自分以外の人間が居たことにホッとする。異常空間にひとりで居るのは堪え難かった。
(よ、よかった、他にも人が居た)
だがなぜこの人物は自分の名前を知っているのだろう。
(あれ? でもこの声って……)
腕の中でぐるりと身体の向きを変える。そこにあった顔に、帝人は「えっ! ?」とひっくり返った声を上げる。
「臨也さん! ?」
自分を抱き締めていたのは新宿の情報屋だった。知り合いなのだから名前だって当然知られている。そうか、と納得しかけたが、「ブー、はずれ」と屈託のない笑顔で彼は帝人の考えを否定した。
「おれはサイケだよ」
「さいけ……?」
「そう、サイケ」
そこでようやく帝人は、彼が言っているサイケという言葉が名前であることに気づいた。



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3 八面六臂(六臂×帝人♀)


逃げなくちゃ。
この人から逃げなくちゃ。
「あれ? 帝人くんまだ逃げる気?」
不思議そうに目を丸くする六臂に「当たり前です!」と食ってかかる。
「いいね、その目。帝人くんの目、オレ好きだなあ」
「そんなことはどうでも良いので早く離してくださいっ」
「嫌だよせっかく捕まえたのに」
六臂は一層強く帝人を抱き締める。
「ここから逃げてどうするの? 誰かに助けを求める? オレたち以外に人間はいないのに。どこにも」
「……っ」
「勝負はついた。オレに捕まった帝人くんの負け」
「勝負なんてフェアなものでしたか?」
最初から自分の負けが決まっていたようなものだ。
勝負なんてさせてもらえなかった。
「僕を元の世界へ帰してください……!」
六臂の胸に手をつき、身体を押し退けようと力を入れる。でもどれだけ押してもびくともしなかった。
無駄なあがきだとでも言いたげに六臂は唇を歪める。
「帰す訳ないだろう?」


book-04 sample 2012.01.03 Yu.Mishima