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東武東上線改札口。
待ち合わせ場所に指定されたそこに、待ち合わせ相手が来ていないか姿を探す。どの時間の電車に乗ってくるかは今朝メールで伝えたから既に来ていてもおかしくないのだが、あいにく待ち合わせ相手の姿はなかった。ちょっとだけ心細さを感じて柱のひとつに凭れかかる。

なにせ僕が地元埼玉を出たのはこれで五度目。その内訳は高校入試や物件探しで、すべて今年に入ってからの出来事なのである。地元での移動手段ももっぱら徒歩、自転車、車の三つ。物心がつく前のことを除くと、電車に乗ったのは入試を受けにこの池袋にやってきた時が初めてだった。僕はある意味箱入り娘だ。ある意味と言うか、言葉そのままの意味で。埼玉という名の箱から出たことがなかった。
とは言え両親が異常な過保護という訳でもなく。多少反対はされたものの、こうして僕が親元を離れることを許可してくれた。
(あ、一応着いたって連絡したほうがいいかな……)

メールを送るために携帯を取り出そうとしたその時、ふいに視線を感じて顔をあげた。

「みーかど」

髪を金に近い茶色に染めた見知らぬ少年が自分の名前を呼んでいる。思わず「え」と戸惑いの声が漏れた。だって思い当たる人物はひとりしかいないけれど、思い出の中の少年の姿と目の前の少年の姿が重ならない。

「あれ? 紀田くん……?」
「疑問系かよー」

そう言って笑った少年の顔は、僕が幼い頃から毎日見ていた笑顔とまったく同じものだった。
「ふふん。ならば答えてやろう」と何やらネタを繰り出してきそうなところを無理やり遮って、僕は「紀田くん! 紀田くんなの! ?」と歓声をあげる。

「クッ……! 俺が三年かけて編み出した渾身のネタを披露する前に潰してくるとは……!」
「全然変わってるんだもん、一瞬誰か分からなくてびっくりしちゃったよ。髪の毛も染めてるとは思わなかった」
「んん? スルー? エブリシングスルーか? まあいい。どうだ、似合ってるだろう?」
「うんすごく。紀田くんの軽薄さがよく表れててすごく良いと思う」
「ねえ辛辣すぎない! ? 四年ぶりに会ったっていうのに幼馴染に対して辛辣すぎない! ? 帝人は俺をもっと大事にするべき!」
「そういうところは全然変わってないね」

ネットを介して毎日のようにやり取りをしていたとは言え、顔を合わせるのは小学生の時以来。会話もどこかぎこちなくなってしまうのではないかと僕は少しばかり心配していたのだが、とんだ杞憂だったみたいだ。外見は変わっていても僕らの会話は昔となんら変わっていない。
嬉しくなって、つい顔が綻ぶ。

「紀田くん背も随分伸びたんだね。昔は僕のほうが高かったのに」
「それいつの話だよー。四年も経てばそりゃ伸びますよ。逆に帝人は小学生の時から全然変わってないな。変わったのは髪の長さくらいか? すげえ長くなったなー」

真っ黒な髪の毛は腰までの長さがある。小学校五年生くらいまでは少年ばりのショートカットだった僕が髪のを伸ばし始めたのは六年生の頃だ。紀田くんが引っ越した時には肩にも届いていなかった。
まじまじと僕の髪の毛を見ていた紀田くんはある一点で視線をとめた。

「――あ、でも胸おっきくなったか?」

「紀田くん、セクハラ」

思わず真顔で怒るが、長年の付き合いのある紀田くんはその程度では怯まない。いや、怯む怯まないの問題じゃない。なにせ紀田くんの視線は胸に固定されたままで僕の顔など見てはいないのだから。

「胸がそれだけ立派だったら大変だよなー。あ、もしかしてそのジャージのような野暮ったい上着は胸のサイズを誤魔化す為に着てるのか? 確かに正確なサイズは分かりにくいけど、帝人程ともなると服の上からでも大きいってことは分かっちゃうもんだぞ〜。あっ、電車で痴漢とか遭わなかったか? 帝人童顔だし大人しそうな雰囲気だし、泣き寝入りしそうだっつって痴漢に狙われやすいと思うんだけど、大丈夫だったか?」
「あのね、それ以上言うようだったら交番に紀田くんのこと突き出そうと思うんだけど、どうかな?」

確か駅前に交番があるんだよね?

「よっし! 駅中で俺たちの友情を確かめ合うのもほどほどにして外に出るか!」

笑顔で言うと、紀田くんはころりと話題を変えた。
僕が本当に痴漢に遭っていないか紀田君が心配してくれているのは僕も十分に分かっている。でもそれ以上に、僕に胸の話題は禁物なのである。
童顔のわりに大きいサイズの胸は、昔から僕のコンプレックスだった。育ち始めたのがいつだったかは思い出せないけれど、小学校四年生の三学期の時点では既にCカップあったことは覚えている。ワイヤー入りのブラを使い始めたのはもっと後になってから。でもあの頃から僕は自分の胸が嫌でしょうがなかった。
自分ひとりだけ胸の発育が良かったせいで、クラスの男子からデカパイとからかわれたのも嫌な思い出だ。紀田くんだけは胸のことでからかったりせず、他の男子から僕を庇ってくれていたけれど、そんな紀田くんも小学校卒業を待たずに引っ越してしまった。中学に入ってからも遠巻きにされるか異様にからかわれるかの二択で、やっぱり嫌な思い出ばかりが残っている。水泳の授業の時なんて全部仮病で休んでしまいたいくらいだった。もちろん休める筈もなく、ただでさえ嫌いな体育が更に嫌いになった。
僕が髪を伸ばし始めたのは、男子の目を胸から少しでも逸らそうとした為である。長い髪を前におろしてしまえば少しは誤魔化せるんじゃないかと思って、頑張って腰まで伸ばしてきた。
でもそう上手くはいかない。誤魔化せるのは通りすがりの人間くらいで、身体を向き合わせてしまうとよっぽどの厚着をしていない限りすぐにバレてしまう。

先ほど紀田くんに指摘されたように、初めて電車に乗った際、僕は痴漢に遭っていた。

僕は最初それを「傘の柄が当たっているのかな?」と勘違いしてしまった。まだ雪の降る時期で、乗客の何人かも傘を持っていたから余計だった。それに痴漢と言うと下半身を狙ってくるイメージがあったから気づくのが遅れたのだと思う。
それが傘の柄ではなく、脂ぎったおっさんの固い手だと分かったのは揉まれてからだ。
大事な入試前に痴漢を駅員に突き出している時間なんてあるはずもなく、僕はひたすら鞄でガードに徹するしかなかった。

嫌な思い出どころではない。最低の記憶である。

(地元の痴漢は露出系が多かったしなあ。遭遇したこともなかったし)

でもそれ以来電車では鞄を抱き抱え、乗車中の立ち位置にも気を使うようになったので痴漢には遭っていない。あれ一度きりだし、紀田くんに余計な心配はかけたくないから黙っておくことにする。

それにせっかく久しぶりに会ったのだし、こんな不愉快な話じゃなくもっと別の話がしたい。

「うわっすごい人……!」
エスカレーターで地上に出た瞬間、あまりの人の多さに歓声をあげた。まじまじと池袋の街並みを見るのも、十八時を過ぎたこの時間帯の池袋にいることも初めてのことだ。
入試の時も、住む部屋を探す時も、ゆっくり池袋を楽しむ余裕なんてなかった。
「土日はもっとすごいぞー。まあこの60階通りなんかは極端に人が多いんだけどな」
ふらふらと人にぶつかりそうになる僕と違い、紀田くんは器用に人を避けて歩くのを見てどこか寂しい気持ちになった。あんなに一緒だったのにっていうフレーズが頭を過る。

「紀田くんもすっかり都会の人になっちゃったんだね……」
「うん。それは単に運動神経の差だと俺は思うな」
「違うよ。慣れの問題だよ」
「帝人もそういうとこ全然変わってない」
「紀田くんだって」
「いや違う! 俺は変わった! ふっふっふ、どこが変わったかって? よっし三択で選べよ〜」
「そういうのはいいからはやく教えてよ」
「たはー! 帝人ってばクール! では教えて進ぜよう! じゃーん彼女が出来ましたー!」
「? 紀田くん、エイプリルフールは先週終わったよ? あ、その彼女は紀田くんにしか見えなかったりする?」
「俺の妄想じゃないから! ちゃんと実在してる人間と付き合ってるから!」
「…………ぇぇぇぇえええええ! ? 嘘! ?」
「嘘でもねえよ! 帝人、俺のことなんだと思ってるの! ?」
「えーうわーそっかーそうなんだ……」

まさか、パソコンのメールのアカウントを「ラブハンターまさ」なんてふざけた名前にしている紀田くんに彼女がいるなんて思ってもみなかった。それどころかメールの内容なんて日々のナンパ記録のようなものだったのに。

(そっか……紀田くん彼女いたんだ……)

さっきと比べ物にならないくらい寂しさを感じたけれど、それよりも驚きのほうが大きい。

「ていうかメールで言ってくれても良かったのに」
「メールで報告するのもどうかと思ってさー。こう、あらためて文章にすると恥ずかしいじゃん?」
「今日紹介してくれても良かったんだよ?」
「や、俺もそうしようと思ってたんだけど、彼女に『久しぶりに会うのに邪魔しちゃ悪いから、また今度ね』って言われた」
「えっ、すごくまともな人なんだねえ……」

心底驚いてしみじみそう言うと、紀田くんは「だから帝人は俺のこと一体なんだと思ってるの! ?」とジェスチャー付きで憤慨した。顔を見合わせて一瞬間を置いたあと、僕たちは声をあげて笑い出した。
彼女が出来ても紀田くんは変わらない。僕が知ってる紀田くんのままだ。そのことに安心して目を細めた。

「今度紹介してよ」
「おう」

そこで、ポケットに入れていた携帯がメールの着信を告げてきた。僕は文面を見て「あっ」と足を止めた。

「どうした?」
「ごめん紀田くん、これからここに行きたいんだけど、場所分かる?」

メールに添付されていた地図を紀田くんに向ける。

「どれどれ……って、この通り沿いじゃん、すぐそこだよ。でもなんだって帝人はこんなとこに行きたいんだ?」

携帯から顔を上げて歩き始めた紀田くんは不思議そうに首を傾げた。僕はそれに対し「会っておきたい人がいるんだ」と答える。だけど紀田くんは驚いたように目を見開いた。今度は僕のほうが不思議そうな顔を紀田くんに向けた。なぜこんなに驚いているのだろう。

「帝人、それってまさか……」

紀田くんの怪訝な表情を見て僕は直前の会話の内容をようやく思い出し、「えっあっ違う違う!」と声を荒げる。

「彼氏とか、好きな人とかそういうんじゃなくて、会っておかなきゃいけない人っていうか、とりあえず紀田くんの考えてることは完全に誤解だから!」

両手を振りながら歩いていたことがいけなかったのか。否定するのに必死で注意力が散漫になっていたのか。もとより僕には運動神経反射神経なんてものは備わっていなかったのか……――僕は何かにぶつかった。

驚いて目の前をよくよく見てみると、そこには何かのキャラクターの等身大と思しき看板がある。

なぜ歩道のど真ん中に看板が?

きょとんと目を丸くしていたら、看板の後ろから男女のふたり組が現れた。なんで。目がさらに丸くなる。すると紀田くんが「あ、狩沢さんに遊馬崎さん、お久しぶりっす」と突然挨拶をするものだから、思わずぎょっとして振り返ってしまった。

「あれー紀田くんじゃん」

どうやらこのふたりと紀田くんは知り合いらしい。なんとなく気が引けて一歩後ろへ下がる。でもその直後に女性のほうに「そっちの子はー?」と水を向けられてしまった。
何を言えばいいものかと泡を食っていたら、紀田くんが僕の肩をぽんと叩いた。
「俺の幼馴染なんすよ。今日田舎から出て来たんです」
左の女性が狩沢さんで、右の男性が遊馬崎さんなと紀田くんは紹介してくれた。一体この三人はどういう知り合いなんだろうとそればかりが気になってしまい、自己紹介するタイミングが少し遅れてしまった。慌ててぺこっと頭を下げる。

「あの、竜ヶ峰帝人と言います」

名前を告げるとふたりは難しい顔をして首を捻った。

「ペンネーム?」と問いかけてきたのは遊馬崎さんのほうだ。

苗字も名前も珍しいから、「それって本名なの?」と疑われるのは毎度のこと。やっぱりそう思いますよねと思いつつ「一応本名なんです……」と、ラジオネームやハンドルネームの可能性について議論しているふたりに口を挟む。だがそこでなぜかふたりの表情が変化した。いや、一変した。

「うそ! ? 本名! ? すごい!」
「ラノベの主人公みたいじゃないッスか!」

いきなりテンション高く喋り出したふたりの迫力に圧倒されてよろめきそうになる。話の内容も飛び交う単語もほとんど理解出来ず、ついには目まで回り出した。紀田くんがこっそり「一部の人間にしか通じない呪文みたいなもんだから流しとけ」と言ってくれなかったら頭から湯気が出ていたかもしれない。小説や漫画やアニメの話をしているらしいことは何となく分かるのだが、僕は紙の上で起こる事件よりも現実に起こる出来事のほうに魅力を感じる人間のため、ネットに親しんではいるもののオタク文化には疎いのだ。チャットや掲示板にはお世話になっているので用語ならそれなりに分かるし、実際使ってもいるけれど、目の前のふたりの会話にはまったく付いて行けない。すごいなあと思わず呆けてしまう。

するとそこへ「帝人?」と紀田くんとは別の男性の声が耳に入った。きょろきょろと声の発生源を探していたら、駐車場の端に会いたかった人の姿を捉え、僕は笑顔を浮かべる。

僕が「京平さん!」と言うのと紀田くんが「門田さん?」と言ったのは同時のことで、ふたりして「え?」「は?」と言ったのもこれまた同時だった。

「紀田くん、京平さんのこと知ってるの?」
「いやいやそれよりお前こそ門田さんのこと何で知ってるんだ?」
「あのね、さっき言ってた会いたい人って京平さんなんだ。京平さんは僕の母方のイトコなの」

紀田くんに彼女がいることを聞いた時の僕に負けないくらいの叫び声が紀田くんの口から迸った。そのあまりの驚きように僕のほうが逆に驚いたくらいだ。

「帝人、それマジか?」
「こんなことで嘘ついてどうするの?」
「いやー、今年一番の衝撃だったぞ……」

驚いているのは何も紀田くんだけではなかった。狩沢さんと遊馬崎さんまでもが「イトコぉ! ?」と騒いでいる。どうやらこのふたりも京平さんの知り合いらしい。世間て狭いなあと思わず感心してしまう。

「門田さん、イトコなんていたんスねえ」
「そりゃ俺にだってイトコくらいいるさ。お前たちに言ってなかっただけだ」

「確かに一々言うことじゃねえな」とワゴンの中に居た男性も同意した。京平さんが「こいつは渡草」と紹介してくれる。頭を下げて名前を告げようとしたけれど、それはかなわなかった。

狩沢さんが往来で突然叫び出したからだ。

「ドタチンずるい! こんなハイスペックな子を隠して独り占めしてたなんて!」

そう言って狩沢さんはつかつかと僕に歩み寄り、僕の胸をがしっと掴んだ。

あまりに唐突な出来事に僕はろくに反応出来ず、そのまま胸を揉みしだかれてしまう。真剣な表情で一言「Fと見た」と呟いた狩沢さんは次の瞬間破顔して僕を抱き締めた。
そこで僕はようやく悲鳴をあげたのだった。もちろん周囲の男性陣も狩沢さんの突然の奇行に対応出来ず、僕の悲鳴を聞いてやっと我に返る次第だった。

「狩沢! お前、人のイトコに何してんだ!」
「えーただのスキンシップだよお。それよりドタチン、この子服で隠してるみたいだけどFカップもあるよ! ? 童顔巨乳でボクっ子ってこれもう二次元の存在としか思えないよね!」
「名前の仰々しさもさることながら、そうやって特徴を挙げると確かに二次元キャラっぽいッスねぇ」

遊馬崎さんが乗るものだから、さらに狩沢さんのテンションが跳ねあがった。

「でしょでしょー ! ? 本に吸い込まれちゃう女の子がいるんならー、うっかり本から飛び出しちゃった女の子がいても良いよね!」
「ありッス。全然ありッス」

京平さんが「お前らいい加減にしろよ」とふたりを諫めてくれなかったら、僕はやめてくださいも言えずに狩沢さんに抱き締められたままだっただろう。

解放された僕はよたよたとふたりから離れて紀田くんの陰に隠れた。いざとなったら紀田くんを盾にする。

「狩沢に遊馬崎。田舎から出て来たばっかの女の子怖がらせてどうするんだ」

京平さんは眉を吊り上げて怒るが、ふたりは全然堪えていない。「だってさー幼可愛い女の子がFカップでボクっ子なんだよ? 大人しくしてろって言うほうがおかしいよ。可愛い子を愛でるのは人間として当然の義務だし、巨乳を揉むのは礼儀でしょ。同じ女同士なんだから問題ないない」「二次元と現実の垣根を越えた存在に対する飽くなき追究ッスよ。それに自分は狩沢さんに同意しただけッス。手は触れてません」と不貞腐れている。

「十人中十人がお前らのほうがおかしいって言うぞ、絶対」
実際、通りを歩いている人たちに何事ぞという目で見られている。恥ずかしさのあまり顔が熱くなってきた。小学生の頃紀田くんと一緒に遊んでいると通行人に注目されることはよくあったけれど、現在の状況とはまるで違う。視線の質も、多さも。

「ああったく……伯母さんになんて報告したらいいんだ」

そう言って京平さんは俯いた。

僕が東京でのひとり暮らしを許可されたのは、イトコである京平さんの存在が大きい。「京平くんがいるなら安心」と両親は彼に対し全幅の信頼を寄せていた。だからこそ余計に責任を感じているのだろう。京平さんのせいじゃないのに。

「京平さん、そんな気にしないで?」
「いやダメだ。俺は伯母さんたちから定期的に帝人の様子を報告するように頼まれてるしな」
「は……? 報告……?」

知らなかった。
いつの間に両親はそんなことを頼んでいたのだろう。僕って信用されてないんだなあというよりも、そんな面倒なことを京平さんに押し付けていたことに対して腹が立つ。まあたぶん軽くお願いしただけなんだろうけれど、責任感の強い京平さんに軽いお願いは通用しない。
眉間に皺を寄せてむっすりしていたら、それまでだんまりだった紀田くんが「随分仲良いんですね」と口を開いた。

「俺が高校卒業するまでは毎年会ってたからな。それに母方のイトコはお互いしかいないんだ」

だから母方の親族が集まった時は、僕はいつも彼に相手をしてもらっていた。八つも年下の女の子によく付き合ってくれたなあとつくづく思う。京平さんは人が良いし、面倒見も良い。

「ねえねえそういえばさー、ふたりとも母方のイトコって言ったけどどういう血縁関係なの?」

さっきまで不貞腐れていた狩沢さんが何事もなかったかのように割って入って来た。
僕と京平さんは顔を見合わせてちょっと苦笑する。

「えっ、何スかその目くばせ」
「意味深〜」
「いやなに。帝人の母親とうちの母親が姉妹同士なんだ」
「ちょっとーそれだと普通じゃん。さっきのふたりの反応からするとその説明だけじゃ済まない感じがしたんだけどぉ?」

狩沢さんの鋭い指摘に京平さんは諦めたように目を伏せた。

「姉妹は姉妹なんだが、俺の母親のほうが妹で、帝人の母親が姉なんだ」

「えっ……と、ふたりの年齢差は?」

ちょっとだけ目を瞠った紀田くんの問いに苦笑しながら「八歳」と答えると、一拍置いてからみんな揃ってうーんと唸った。

「一、二歳の年の差ならそういう逆転も結構聞きますけど、八歳ってこれまた特殊ッスね」
「なになに? お姉さん、婚期逃しでもしたの? それか結婚したあと子どもがなかなか出来なかったとか?」

その先は僕が説明した。

僕の母は学生の頃から既に父と付き合っていたのだけれど、それを母の父親――僕にとっての祖父が許さなかったのだ。駆け落ちだなんだと騒動を乗り越えてようやくふたりが結婚出来た頃には妹である叔母さんのほうはとっくに他所へ嫁いでしまっていた。両親の結婚式の写真を見ると、幼少時の京平さんがしっかり写っている。
ちなみに祖父が娘は嫁にはやらんと最後まで譲らなかったため、父が婿入りした。そのせいで竜ヶ峰竜也という、竜の字がふたつもあるすごい名前になったりしたのだが、生まれた娘に帝人なんて名前を付けるようなセンスの持ち主だからあまり気にしていないらしい。出来ればそこは一般的な感覚を持っていてほしかった。おかげであなたの娘は自己紹介のたびに苦い思いをしています。なんて言ったところで父も母もまともに受け取ってはくれないのだが。

「はあー……ご両親の人生、波瀾万丈ッスねぇ」
「ホント。面白い話聞かせてもらったわ」

満面の笑みを浮かべた狩沢さんがありがとうとお礼を言ってきた。この手の話は女子のほうが食いつきが良い。やはりこの中で一番目を輝かせていたのは狩沢さんだった。お礼にさっき買ってきた本いくつか貸してあげると言い出すので、僕は慌てて両手を振った。
「そんな、いいですよ!」
いいからいいからと笑って狩沢さんは取り合ってくれない。

「だったら、その、僕もひとつお訊きしたいことがあるんですけど……」

「ん? なになにー?」

「『ドタチン』て、まさか京平さんのことだったりします?」

僕の質問に狩沢さんだけでなく京平さんまで目を丸くする。
実はさっきからずっとそのことが気になっていて、いつ尋ねようかとタイミングを窺っていたのだ。ドタチンという言葉に、僕は聞き覚えがあった。正確には見覚えがあると言うほうが正しいけれど。

「え? そうだよーその通り。ね、ドタチン」
「その名前で呼ぶなっつってるだろ!」

あだ名がお気に召さないらしい京平さんには申し訳ないが、その事実に僕は喜びを感じていた。やったあと両手を挙げたい気分だった。
ドタチンが京平さんであるなら、彼の近くにあの人はいるはずだ。

「京平さん、甘楽っていうハンドルネームに心当たりありますか?」

「かんら……? いや、ないが、そいつがどうかしたのか?」

甘楽というのは、僕がよく訪れるチャットルームの管理人の名前である。彼女と、それにもうひとりの常連さんと毎夜チャットでやり取りをするのがここ一年の僕の習慣になっている。
ふたりとも池袋かその近辺に住んでいるのだろう。チャットでは池袋で起こっている事件や出来事がよく話題に上がる。変わらない日常につまらなさを感じていた僕にはそのどれもが魅力的だった。特に甘楽さんは情報通のようで、僕の興味をそそるような話をたくさん持ってきてくれた。
僕がこの池袋にやって来たきっかけのひとつが、その甘楽さんだ。
池袋の話題には特に食いつきが良いことは当然彼女も分かっていたのだろう。いつの頃からか彼女においでよと何度も、それはもうしつこいくらい誘われるようになった。
ずっと憧れだった池袋。行けることならぜひ行きたいと思っていた。そしてもともと傾きかけていた天秤は、紀田くんの「一緒の高校行こうぜ」という一言で完全に『池袋』の側に傾いた。気持ちが固まったらそこから先は速かった。必死になって両親を説得し、高校も両親が納得するレベルのところに合格し、晴れて僕は憧れの地池袋に住めることとなった。
池袋に住めることになりましたとチャットで報告したら甘楽さんも我が事のように喜んでくれた。
チャット機能のひとつである内緒モードでやり取りを交わしたりすることもあるくらいに仲良くなった女性。池袋に来たからには、せっかくだから彼女に一度会ってみたい。
そして甘楽さんが会話の中でたまに出してくるのが、ドタチンという単語だった。僕が何度「ドタチンて誰?」と尋ねても全然答えてくれなかった。むしろわざとスルーして僕の反応を面白がっていた。
(まさかその「ドタチン」が京平さんのことだなんて……)
思わぬ繋がりに口許が緩む。池袋に着いてまだ何時間も経っていないというのに、この展開はなんだろう。すごく面白いことが起こりそうな予感がする。

「それはそうと帝人、池袋で暮らすにあたってひとつだけ忠告がある」
「え、どうしたんですか、そんな改まって……」

京平さんは少し怖い顔つきで一言、「折原臨也には近づくな」と言った。

「オリハライザヤ?」

僕に負けず劣らずなすごい名前だ。反射的に紀田くんのほうを見ると、なぜか彼は顔を強張らせている。

「絶対に、何があっても奴には近づくなよ」

それは忠告と言うよりも、有無を言わさない警告だった。京平さんがそこまで言うオリハラ何某とはどのような人物なのだろう。絶対に近づくなと言われてしまうと逆に興味が湧く。

そのうえ京平さんたちと別れた後、紀田くんにまで「折原臨也には関わっちゃだめだぞ」と念押しされた。

「そのオリハラって人、どんな人なの?」
「お前なーそんな風に目ぇきらきらさせて訊くなよ……」
「だって気になるじゃん」
「………………ここで俺が何も言わなかったら絶対帝人はあとで躍起になって調べるだろうから、仕方ないが教えてやる」
「さすが紀田くん、僕のことよく分かってるね」

で? と笑顔で続きを促したら、紀田くんは深々とため息をついた。

「新宿を主体にしている情報屋。ヤーさんとも繋がりがあるんじゃないかって噂もあるヤバい奴。顔は良いけど性格が最悪で、味方よりも敵の数のほうがずっと多い。その前に味方なんてものがいるのかも微妙」

情報屋。
そんなものが東京には実在するなんて、東京はすごい。わざわざ情報屋と掲げるくらいだから、探偵や調査員とはまた違うのだろうか。

(そういえばどこかの掲示板で『新宿の情報屋』ってフレーズ見た気がする。どこの掲示板で、どんな内容だったっけ)

思わず自分の考えに没頭しそうになったけれど、ちらりと見た紀田くんの表情がいつになく深刻そうだったため、一先ずその考えは脇に置いておくことにした。
初めて見る表情に思わずドキッとしてしまうが、紀田くんの次の発言に僕はずっこけそうになった。

「池袋で何か事件が起きたら、規模の大小は問わず、その裏には必ず奴がいると見て間違いない」
「え……情報屋が?」

それはもはや情報屋とは言わないのではなかろうか。だけど紀田くんは怖ろしく真面目な顔で頷く。

「イエス。情報屋が。あの人は他人の人生を引っかき回すのが好きなんだ。関わったら酷い目に遭うから帝人は絶対に近づくなよ、頼むから」

「……紀田くんは?」

紀田くんの切実な要求に頷くよりも先に、自然と口が動いていた。
「え?」
「紀田くんは、その人と何かあったの?」
京平さんが名前を出した時の反応や、僕に対する過剰な心配ぶりを見るに、何かあったとしか思えない。
すると紀田くんはばつが悪そうな顔をして頭を掻いた。
「あーまあ、あったっつうか何つうか……煮え湯を飲まされたとまではいかないけど、みたいな……とにかくだ! 普通に生活していればまず会わないと思うけど注意は怠るなよ!」
無理やり聞き出す気はなかったので、言いたくなさそうな紀田くんをそれ以上追及するのはやめて「はいはい」と適当に頷く。

「根城は新宿だし、ここずっと最近は何でか大人しいんだけど油断はするな。それと折原臨也の天敵の平和島静雄も危険人物だ。でかいし、キンパにバーテン服でちょー目立つから、見たらすぐに分かる。んで、認識したと同時に走り出せよ、危ないから。でもまあ遠くから見てる分なら全然大丈夫だ」
「え、何それ」

そう言ったのと、視界の端で自販機が宙を舞ったのは同時だった。

映画やドラマの撮影だろうか。それとも東京では自販機が空を飛ぶのは日常茶飯事なのだろうか。道行く人は大騒ぎすることなく普通に足を動かしている。なぜ驚かないのだろう。いや、中には驚いている者もいるのだけれど、僕ほどじゃない。
ぽかんと口を開けたまま振り返ったら、あれだと言って紀田くんは笑った。
「自販機だけじゃないぞ、標識やら電柱やら看板やら車、果ては人間まで空中を舞う」
ぎょっと目を見開くと、紀田くんは「帝人は運がいいな、池袋に来たその日のうちにアレが見れるなんて」とケタケタ笑いながら再び歩き出した。僕は慌てて付いて行くが、さっきの光景が目に焼き付いて離れない。ちらちらと後ろを振り返るが、残念なことにあれ以上何かが宙を舞うことはなかった。今度はもっと近くで見たいなあなんて考えていたら、さっきくらい距離を置かないと危ないからなと紀田くんに釘を刺されてしまう。

「紀田くん、お父さんみたい」
「おう。娘さんをくださいと言われたら俺はこう言おう。まずは俺と戦え、話はそれからだ!」
「僕の結婚に紀田くんの許可が必要なの?」
「仕方ない。手を繋ぐのは許す」
「そこからなんだ」

そんな馬鹿な話をしていたら、どこか遠くで馬がいなないた気がした。
すると突然紀田くんが小走りで駆け出すものだから、「えええっ」とひっくり返ったような声が僕の口から飛び出す。足を縺れさせながら僕も紀田くんを追いかけて走り出す。

「お前、本当についてるぞ! 池袋に来たその日のうちに都市伝説を拝めるなんて!」

大きな交差点の信号で紀田くんは立ち止まった。上には高速道路が走っていて、横断歩道の距離も長い。あっちだと紀田くんが指差した方向に目をやると、奥のほうから黒い影が音もなく迫ってきた。じっと目を凝らす。

あっと思った時には、特徴的なヘルメットを被った真っ黒な影とバイクが僕の目の前を横切った。

ほんの一瞬。

僕の目の前を通ったのはほんの一瞬だったのに、それ以上の時間の流れを僕は感じていた。

期待と喜びで胸がいっぱいになり、それまでの会話の内容がすべて頭の中から吹っ飛ぶ。

「首なしライダー……」

ナンバーもライトもなく、エンジン音すらしないという黒いバイクに乗ったその人物には首がないという。
池袋の都市伝説である首なしライダーが走り去った方角に目を向けたまま、これから僕の新しい現実が始まる予感に僕は打ち震えていた。




   ***







「さて帝人。午前授業で終わった今日、有意義に午後を過ごす方法とは何だと思う? 答えはそう、ナンパです」

「紀田くん、彼女いるんじゃなかったっけ?」

それともあれは嘘だったの。

思った以上に冷たい声が出たけれど、紀田くんはこのくらいではめげなかった。「大丈夫だ。俺の彼女は海よりも心が広いから、他の女をナンパしたくらいじゃ怒らない。むしろ頑張ってきてねと声援をくれる」と誇らしそうな顔をしている。突っ込むのも馬鹿らしいと言うか、おそらく紀田くんの彼女もナンパが成功するとは思っていないに違いない。

「ラブハンターまさの名に恥じぬよう今日もナンパに勤しみます。ということで付き合え帝人」

そう言って街に繰り出した紀田くんだったが、案の定釣果はゼロ。ボウズだった。
当然だ。あの口上で落ちる女性がいるのなら見てみたい。

(紀田くんに彼女がいるなんて奇跡みたいなものだなあ)

少し離れた場所から紀田くんのナンパの様子を眺めていたら「こら帝人! そんなに離れてちゃだめだろう!」と怒られた。

「ねえ紀田くん、僕がいる意味ってあるの?」
「女子が一緒だと相手も安心するだろう?」
「じゃあね、紀田くん。また来週」
「そんな冷たいこと言わないでもうちょっと俺に付き合ってくれてもいいと思うんだっ。よし分かった、ここは場所が悪いから移動しよう」

場所を移したところで紀田くんのナンパの成功率があがるとはとても思えない。

(でもまあ明日は日曜だし、もう少しくらい付き合ってあげてもいいか)

彼女に愛想を尽かされても知らないからねと言うと、紀田くんはとびきりの笑顔で僕の背中を押してきた。数年ぶりに会った友人をナンパに付き合わせる紀田くんも紀田くんだけど、それに付き合っている僕も僕だ。けれど池袋に出てきてまだ一週間と経っていない僕には紀田くん以外の友人もいない。紀田くんの誘いを断る理由はなかった。

「紀田くんが今付き合ってる彼女も紀田くんがナンパしたの?」
「いや、彼女のほうから逆ナンされた」
「ああ、なるほど。そうだよね、紀田くんのナンパに引っ掛かるような女の子なんていないよね」
「幼馴染の辛辣さに俺のハートはブロークン! おい帝人よ! 俺が何を言われても傷つかないと思ったら大間違いだぞ!」

胸を押さえて痛がる素振りを見せる紀田くんに冷笑を浴びせていたら、ふと路地の奥に知った姿を発見した。

「園原さん……?」

同じクラスの女子生徒、園原杏里。

僕が一方的に親近感と憧れを抱いている人物である。彼女は僕よりも一、二カップは大きい立派なバストの持ち主だ。
それなのに僕と違って背筋がピンと伸びていて、堂々と胸を張っている姿はとてもカッコいい。
大人しそうなのにスカート丈が短いところも僕が憧れるポイントのひとつだ。制服を作った店で「来良の子はみんなこのくらい短くしてるよ?」と言われたのだが、平均よりも十センチは長い丈で仕立ててもらったうえ、僕は黒いタイツで足を覆い隠している。普段ズボンばかりを穿いて過ごしている僕に、このスカート丈はかなりハードルが高い。
友達になりたいなあなんて思っていたら、今日の委員会決めで幸運にも園原さんとクラス委員になることが出来た。ふたり同時に手をあげて、彼女も僕も互いに譲らなかったため、普通だったら男女各ひとりずつ選らばなければいけないところを女子ふたりにしてもらえたのだ。
ホームルームが終わってからこれ幸いとばかりに話しかけた僕は「すみませんが、用事があるのでその話はまた明日……」と速攻でフラれてしまい、結局紀田くんのナンパにこうして付き合わされているのだが、その彼女が薄暗い路地の奥で女の子たちに囲まれていた。

「ねえ紀田くん、あの人園原さんじゃない?」
紀田くんは僕たちとは別のクラスではあるが、入学式の時から彼女に目を付けていたようでさっそく声を掛けていたから認識がある。
「ああ……? これはもしやイジメ現場か?」
ひょいと覗きこんだ紀田くんが困惑した声で僕に同意を求めるのも無理はない。
もはやテレビの中にしか存在していないんじゃないかと思えるような古典的なギャル三人組が、園原さんの退路を断つように取り囲んでいる光景はベタ過ぎてちょっと現実味に欠けていた。漏れ聞こえてくる中傷内容もベタというかストレートというか。

「逆にいっそ清々しいね」
「ある意味陰湿とは程遠いな」
「イジメ自体が陰湿な筈なのにね」

そんな訳で僕たちふたりしてついうっかり悠長に建物の陰から様子見していた。
本当にうっかりしていた。ギャル三人組のインパクトが強すぎて、彼女らの後ろにはこれまた柄が悪い男が立っていたことを見過ごしていたのだから。

ギャルのうちのひとりが「ヒロシ! やっちゃって!」と言ったところでようやく僕はこれはヤバいと焦り出した。

助けに行かなくちゃ。

でもどうやって?

(イジメに気づかないフリして連れ出すとか……)

それが一番無難だろう。僕は紀田くんが隣にいることも忘れてひとりでイジメ現場に乗り出そうとした。

けれどそれは叶わなかった。

「イジメ? やめさせに行くつもりなんだ?」
「へ?」

見知らぬ男性が僕の肩を掴んでいた。そして何事かと目を丸くしている僕の肩を抱いたまま男性は園原さんたちがいるほうへ悠然と歩き出した。当然、男性に肩を抱かれている僕も一緒に歩くことになる。

「えっ? えっ……?」

何とも心細い声が僕の口から洩れた。

何この状況、意味が分からない。

でも男性は前を向いたままニヤニヤと笑って僕に取り合わない。それどころかそのままズンズン歩き続け、みんなの手前で突然立ち止まったかと思えば、ギャル三人組と園原さんの間に僕を突き入れた。みんながみんな、ギョッとしている。

(ええー、これ一体どうなっちゃうんだろう…… ! ?)


***


結果的に、どうにかなった。

ギャル三人組のリーダー格らしい少女の鞄と携帯、それに少女の彼氏の頭髪を犠牲に、文字通りその場を切り抜けた。
 
少女の携帯を何度も踏み潰しながら高笑いし、彼氏の髪形を一瞬にして月代に変えて楽しんでいた愉快犯は、変わらずニヤニヤと笑みを浮かべている。彼は助けてくれようとしてあんなことをしたのだろうか。お礼を言うか迷ってしまうのは、その方法が非道で残酷だったからだ。少なくともあんな風に笑ってやることではない。
 
ちらっと園原さんのほうを見ると、無表情のままではあるがどこか居心地が悪そうだった。ですよね、と僕は心の中で頷く。

「いやー本当に偉いよねぇ。苛められてる子を助けに行こうとするなんて」

男性の発言を聞いて「え?」と園原さんが不思議そうに振り向いた。助けに行こうとしていたのは事実だけれど、僕は何も出来なかったし、園原さんを助けたのはむしろ発言した男性のほうだ。
えへへ、と僕は笑って誤魔化す。
そして先ほどから不自然に黙り込んだままの紀田くんに怒りを向けた。八つ当たりというよりもむしろ、気が置けない友達だからこその甘えである。

(こういう時にこそその無駄に回る口を使ってよ……っ)

救いを求めて紀田くんのほうを窺うが、紀田くんの顔色の悪さに思わず目を瞠った。血の気が引いて真っ青になっている。

「久しぶりだね、紀田正臣くん」

ただの挨拶にしてはなんだか含みのある言い方だ。
紀田くんの表情が不自然でなければ、紀田くんて本当に知り合いが多いなあなんて微笑ましく思えたかもしれない。
紀田くんがこんな風に気を張るなんて、一体この人は誰なんだろう。
そんな僕の疑問の答えはすぐに示された。

「本当に、久しぶりですね……臨也さん」

その名前は、先日京平さんと紀田くんに散々関わってはいけない近づいてはいけないと注意を受けた人物の名前だった。

オリハライザヤ?
この人が?

反射的に振り返ったらばっちり彼と目が合ってしまった。にこっと、それまでとはちょっとニュアンスの違う笑みを向けられて、言葉に詰まるどころか息が詰まった。

「紀田くんの友達? 俺は折原臨也、よろしくね」
「あっ、竜ヶ峰、帝人です……」

正直に名乗ったら隣の紀田くんから「頼むからそれ以上は何も言うな」と言わんばかりの目でおもいっきり睨まれた。

(ええっ、だってこの流れでは名乗らないほうが変でしょう…… ! ?)

紀田くんの過剰な反応に困惑するばかりの僕に、愉快犯もとい折原さんは「エアコンみたいな名前だね」と言った。

それって本名なの、だったり、偽名みたい、だったり。

僕が名乗ると大抵相手は何か一言言ってくる。けれどエアコンみたいだなんて初めて言われた。

ちょっとの間、僕の頭の中は真っ白になった。

「それはそうと臨也さん、なんで池袋に?」

彼の気を僕から逸らそうとしてか、紀田くんはわざわざ一歩前に出て折原さんに話を振る。

「ちょっと人に会いにね……」

折原さんは思わせぶりに言葉を切ると、なぜかそこで再び僕に目を向けた。
鋭い視線に射抜かれて、反射的にびくっと身体が竦む。

「もう会えた」

(それって……)

どういうことですかと尋ねようとする前に、左方向から飛んできたゴミ箱とともに折原さんの姿が僕の視界からフェードアウトした。


          ***


「そっ、そのはらさん、だいじょうぶ……?」

あの後、紀田くんに教えてもらっていたもうひとりの危険人物や、折原さんに月代にされた恨みを晴らそうと仲間を大勢引き連れてやってきたチンピラの大乱闘に発展。
滅多にない光景に僕は夢中になっていたのだが、園原さんの身体が震えていることに途中で気づき、僕は彼女の手を引いてあの場から逃げ出した。
紀田くんを置いて。

ごめんと心の中で謝りつつ、必死に走った。
最初は僕が彼女の手を引いていた筈なのに、いつの間にか僕のほうが園原さんに手を引かれていたけれど。

体力のない文学少女のように見える園原さんは、僕なんかより全然体力があった。僕がぜえはあ荒い呼吸をしているのに対し、園原さんは息ひとつ乱れていない。

やっぱり園原さんはすごい。カッコいい。

「ありがとうございました」

園原さんは丁寧に頭を下げてからにっこり笑った。それは初めて見る彼女の笑顔で、僕は思わず釘づけになる。


あんなに夢中になっていた筈なのに、さっきまでの出来事は完全に頭から消えていた。

book-01 sample 2011.05.27 Yu.Mishima