ballast 5



眠りから覚めるときに感じる特有の浮遊感があった。

徐々に意識が浮き上がってくるのが分かる。

自然と目が開くと、そこにあるのはもはや見慣れた光景。薄い水色は、昨夜兄さんの着ていたパジャマの色だ。確か細かいストライプが入っていたはずだけど、生地が頬に触れるほど間近にあるために潰れて見える。

一緒に眠るのはこれで何度目のことだろう。最初のうちは律儀に数えていたものだけど、両手で足りなくなった頃にやめてしまった。

最近になってようやく、高校生にもなる男兄弟が同じベッドで眠るということが一般的なことではないのだと知った。兄さんと一緒に寝た翌日に毎度機情の人間が微妙な顔をしていた理由も同時に知った。

僕の家族に関する知識のほとんどは兄さんから学んだものだから、こういった齟齬はままある。だけど誰かからはっきりと注意されたことはないし、弊害が生じたこともないから、自分から進んで方向性を変えることはしない。たとえ機情から注意されたところで、「問題がないなら変える必要はないでしょう、ルルーシュに変に思われでもしたらどうするんです」くらい言ってしまいそうな気もする。

自分が兄から与えられる愛情を甘受している自覚はもちろんある。彼を監視する側の人間として、それが正しくない行為だということも自覚している。

そう思っていたけど、実際には自分の立ち位置が今の僕には見えていないんじゃないだろうか。そんな疑念がいつも付き纏う。一本筋を通せない。監視者としての僕と、兄さんの弟としての僕。針は揺れてばかりだ。
でも何ヶ月も兄さんと生活してきて、次第にこれが任務だということを忘れてしまう時間が増えてきていた。
このままではバランスが崩れてしまう。
傾きそうな身体を必死に自制して保っていたバランスが。

思わず身じろぐと、それまで起きる気配のなかった兄さんの腕がぴくりと動いた。顔を上げると、重たそうな瞼が徐々に開いてゆく。

「…………ロロ?」
「兄さん、おはよう」

掠れた声で名前を呼ばれ、僕は笑顔で言葉を返す。

「また先を越された……」
「兄さん低血圧だもん、僕に勝てるわけないよ」

毎回口惜しそうに呟く兄さんにからっとした調子で告げると、乱暴に頭をわしわしと撫でられた。そうだな、人には向き不向きがあるもんなと言いながらも、その目はリベンジに燃えている。今のところ僕の勝率は100パーセントで、それが今後破られる予感はない。

「さて、じゃあ俺は朝食の用意をしてくるから、ゆっくり準備しておいで」

普段からの洗練された立ち居振る舞いからは考えられないほど重たそうな動作で起き上がると、兄さんはふらつきながら部屋を出て行った。

兄さん自身の支度の時間も考えて、僕もベッドから起き上がる。目覚ましもまだ鳴る前だから、急ぐことはなかった。とりあえず昨夜から今にかけての兄さんの行動をケータイメールで機情に知らせることにする。
個室にはそれぞれ監視カメラが一台しか取り付けられていないうえ、僕の使っている部屋は少しばかり死角が多い。室内のほとんどはカメラに映っていないだろう。だからこうして兄さんが僕の部屋に来たときはその行動を報告する必要があった。
カコカコと無機質な音が部屋に響く。
盗聴器は見つかる可能性が高いとして設置されていない。そのため、クラブハウス内での会話の内容もおおまかに伝える必要がある。だけど始めのころに比べ、報告文章も大分おおざっぱになってきた。
以前は10行ほど書いて送っていたメールも、今では5行にも満たない。

送信し終えてケータイをぞんざいに閉じると、ストラップのチェーンがしゃらっと音を立てた。慌ててロケットを掬い取って、傷がついていないかどうか確認する。誕生日のプレゼントにと兄から貰ったそれは、幸いなことに無事だった。無意識にほっと息が漏れる。

(馬鹿だな……)

自分を自嘲する声が胸の内で響いた。それまで物事に頓着したことのなかった僕が、唯一扱いあぐねている物。いや、傷の有無を心配するあたり、僕なりに大事に扱っているつもりなのだろう。

無意味にロケットを開けて閉じる。この仕草もいつの間にか僕の癖になってしまっていた。

知らず知らず眉をひそめる。

(こんなことで、この先どうするんだ)

ケータイを手に持ったままバスルームへ向かう。それは毎朝の僕の習慣で、怠ったことは一度もない。なぜバスルームかというと、そこに鏡があるからだ。兄さんの本当の妹である少女の部屋には、当然のように鏡がない。

大理石の床に靴音が鳴る。手探りで明りのスイッチを入れると、僕は鏡の前に立った。

冷たい瞳がじっと無表情な顔を見つめてくる。ひとつ呼吸をおいて、そっと目を閉じた。そして再び目を開けると、そこには柔らかい笑みを浮かべる自分の顔がある。

兄さんと暮らし始めてから毎朝欠かさず行っている、笑顔の練習。最初のころは兄さんの笑顔を思い浮かべては、少しでも似せれるようにがんばって顔の筋肉を動かしていた。ひとつも兄さんの笑顔を見逃さないようにして、それを覚えて、瞼の裏に焼き付けて、そして自分のものにしていった。

ぎこちなかった笑顔は次第に自然な表情を浮かべられるようになり、意識して作っていたそれも無意識にできるようになった。もう、いちいち兄さんの笑顔を思い出さなくても大丈夫。

(でもそれは、そばに兄さんがいればこそ……)

鏡に映った顔が、不意に歪んだ。

兄さんの欠けてしまった記憶を埋めるために僕が宛がわれたように、意図せずして僕の欠けた感情を兄さんは埋めていった。互いで足りないものを補い合って、バランスは保たれている。でもそれは、外部からの衝撃であっけなく崩れてしまうものだ。

魔女が現れれば、兄さんが記憶を取り戻せば。茶番はすぐにでも終わってしまう。兄さんの死でもって。

(そのとき僕は、どうすればいいんだろう)

滑稽なのは兄さんではなく、僕のほうだ。

以前はあんなにこの任務を早く終わらせたがっていたのに、今ではこの生活がずっと、ともすれば永遠に続けばいいと願っている。兄さんが惜しみなく与えてくる愛情を知ってしまった僕は、もう昔の自分には戻れない。とっくに優先順位はひっくり返っていた。

なんて自分は馬鹿なんだろう。
なんて自分は愚かなんだろう。

「ロロー」

(兄さんが呼んでる)

遠くから聞こえてきた呼びかけで瞬時に気持ちが切り替わる。

「なあに、兄さん」

そう答える僕の顔は、兄さんが僕に向ける笑顔と寸分もたがわないものだった。







バランスを安定させるために積まれた底荷をあとあと取り払われてしまった船は、沈む以外に他はあるのだろうか。




end.


2008.05.05 - 05.18  Yu.Mishima