息吹(後編)サンプル



冒頭部分


受話器の向こうから聞こえてくる元気の良い声に、ルルーシュは自分の耳を疑った。幻聴だと思いたかった。空耳と信じたかった。だが残念なことに、目の前の画面には見慣れた制服が映っている。
『ご注文のピザをお届けにあがりました!』
頼んだ覚えのないデリバリーピザの来訪をインターホン越しに伝えられたルルーシュはがくりとその場に崩れ落ちそうになった。いや、なったと言うか、実際に脱力して膝が床についた。横から覗き込んでいたガウェインと蜃気楼もルルーシュの動きに合わせてスススーと一緒に身を屈め、無表情のまま不思議そうに小首を傾げた。一体ルルーシュはどうしたのだろうかとふたりは頭の上に疑問符をたくさん浮かべている。明らかに様子がおかしいルルーシュを心配しているのだ。キッチンのほうからも「兄さん?」と心配げなロロの声が聞こえてくる。
「…………今、行きます」
配達に来た人に罪はない。注文先に品物を届けるのが仕事なのだから。
無愛想な声にならないよう気をつけながらルルーシュは受話器越しに返事をした。顔を俯かせたまま、極力丁寧に受話器を戻す。そして盛大なため息をついた。
(あの女……!)
握り締めた拳に力が入る。そのまま感情に任せて床を殴りつけたくなった。その衝動をなんとか押し込めたのはすぐ側にガウェインと蜃気楼がいたからだ。
「ルルーシュ?」
「大丈夫?」
両脇から覗き込んでくる小さな同居人たちの声は相変わらず抑揚に欠けている。だがそこに自分の身を案ずる気配を感じ取ったルルーシュは、右手でガウェインの頭を、左手で蜃気楼の頭を撫でた。ふたりに不安を感じさせないよう、いつもと変わらぬ柔らかい笑みを浮かべる。
「これからちょっと下へ行ってくる。もし俺が遅くなるようだったらふたりとも先に寝るように」
分かったか?
するとガウェインと蜃気楼のふたりは顔を見合わせたあと、ううんと言って小さくかぶりを振った。
「……寝ない」
「……待ってる」
滅多に首を横に振らないふたりの珍しい主張にルルーシュはおやと目を瞠った。
「ルルーシュにおかえりなさいして、」
「おやすみなさい言って一緒に寝る」
「「……だめ?」」
その言葉を聞いて、ルルーシュは笑みをこぼしながらぎゅっとふたりを抱き締めた。表情はまだまだ乏しいが、感情は一緒に暮らし始めた頃よりもずっと豊かになった。その変化をルルーシュは素直に嬉しく思う。このまま健やかに育ってくれれば言うことはない。若干十八の男性にしてもはや母親のような心境だ。父親ではない。母親である。
ぎゅっと自分を抱き返してくるふたりのつむじにキスを落とすとルルーシュは立ち上がった。いつまでもピザ屋の店員を表に待たせておくわけにもいかない。季節はすでに冬、そのうえ日が落ちてからもう大分経つ。ただでさえ最近冷え込みが厳しいというのに、仕事とはいえそう何分も待たされては敵わないだろう。それにうちへ来ることだけが仕事ではない。
ルルーシュの心中を察したのか、聞き分けの良いふたりの幼子もすぐにパッと離れて、さっきまで読んでいた本のところへ戻っていった。けれどその背中はどことなく寂しげに見える。
寝る前に何か本を読んであげようと思いながらもルルーシュは財布を手に取り急ぎ足でリビングを後にする。だが途中のキッチンでロロに声を掛けるのも忘れない。
「すまない、ロロ」
「分かってる。分かってるよ」
あからさまに不機嫌そうなロロの表情にルルーシュは苦笑を漏らした。優しく「ロロ」と名前を呼んでもムスっとした表情は解けない。それどころか料理をする手つきまで乱暴になった。外見に似つかわしい、子どもらしいアピールである。
「夕飯は必ずあとで食べるから、俺の分も残しておいてくれ」
柔らかな顔立ちのわりに頑固な弟の機嫌を直すのは結構大変だ。だが下に人を待たせている状態なのでロロにばかり構っているわけにもいかない。ルルーシュは足早に階下へと向かった。
階段を駆け下りると真っ暗な店内へ飛び込む。裏口もあるにはあるのだが、インターホンがあるのは店表だけだし、そもそも通りから裏口へ回るには隣店舗との狭い隙間を通るしかない。ルルーシュですらそう簡単に通り抜けられない狭さなのだ。まず頭がつかえてしまう。だから私用であろうと店の玄関を使うしかない。現在の住まいに十分満足しているが、唯一それだけが不満だった。
玄関の近くにある照明を付けて、急いで錠を外す。
「どうもお待たせしました」
「いえいえ、毎度どうもー。こちらお品物になります」
Lサイズのピザの箱とサイドメニューの入った包みを受け取って、とりあえずそれを店のなかにある客用のテーブルの上に置く。そして再び玄関に戻って支払いを済ませた。「またのご利用お待ちしてまーす」と朗らかな笑顔で配達人は去ってゆく。
なんだかこのやり取りだけでどっと疲れてしまった。おそらく配達人の笑顔があまりに屈託ないからだろうとルルーシュは思う。施錠する手にも力が入らない。
だが問題はここからだ。なにせこのあと屈託ありまくりの人物とやりとりしなければならない。
ふうと深く息をついて店内へ戻ると、そこにはむしゃむしゃとピザを頬張る少女の姿があった。それを目にした瞬間、ルルーシュの周りの空気が凍りつく。
「C.C.……」
鮮やかなライトーグリーンの長髪を背もたれに掛け、行儀悪く椅子の上で胡坐をかいている少女は自分の名前を呼ばれて億劫そうに顔をあげた。口許にトマトソースと刻みバジルが付いている。美しい顔立ちをしているはずなのにムスっとした表情と口周りの汚さのせいで色々と台無しだ。
「ただいま」
「……おかえり」
「なんだ? ピザは私のものだからお前にはやらんぞ」
「久しぶりに会ったというのに第一声がまずそれか。しかもその代金を支払ったのは俺であっておまえではない」
「ケチくさい男は嫌いだ」
「ケチはどっちだ」
人の金で買ったピザを一切れたりとも渡そうとしないくせに。
ため息をつきながらルルーシュも椅子に腰掛ける。強烈なピザの匂いに思わずくらりと目眩がした。店内の人形やドレープにこの匂いが染み込んでしまわないか心配だ。ぽろぽろと食べ滓が下に落ちないかも心配である。さっき掃き掃除を済ませたばかりだというのに、もう一度掃除をする必要があるようだ。それも念入りに。あとで換気と消臭もしなくては。
ぐちぐちと文句を垂れていたらC.C.が「いちいち煩い男だな」と睨んできた。
「で、収穫はあったのか?」
「見て分からんのか。私は手ぶらだ」
ぷらぷらと振られたC.C.の手にあるのは食べかけのピザだけだ。嗤笑する彼女の口からはのびたチーズが垂れていて、それがまたルルーシュの怒りを誘った。もっと上品に食べろと怒鳴りたい衝動をなんとか抑える。C.C.には頼みごとを聞いてもらっているだけに、立場は彼女のほうが上なのだ。そう偉そうにはできない。
「……情報は?」
「生憎それもないな。残念なことだ」
ピザを咀嚼しながらの言葉は、ルルーシュの耳には実際にはもっともごもごとした音で届いている。食べるか喋るかどっちかにしろ、口に物を含んでいるときは喋るなと叱りつけたいところだが、これでは本当に母親だ。ルルーシュはぐっと堪えた。
「……噂話の類もか?」
「目新しいものは何も」
「本当に何もないのか?」
「何度も同じことを言わせるな、しつこいぞ」
心底面倒くさそうなC.C.の様子に、心の内で必死に「自制心自制心」と唱えていたルルーシュの口から思わず嫌味が飛び出る。
「手土産もなしに戻ってきてメシだけ集るとは、本当に図々しい女だなおまえは。結局まじめに探してくれているのはジェレミアだけか」
「おまえ、自分の言ったことを忘れたのか? 『旅の途中、ついでで良いから』と、そう言ったんだぞ。あれは嘘だったのか。それともその年齢で痴呆になったのか。なあルルーシュ?」
「くっ……」
ルルーシュは言葉を詰まらせる。自分にとって都合の悪いことだけを器用に忘れることが出来ればいいのだが、抜群の記憶力はそれを決して許さない。ついでで良いと言ったことをばっちり覚えているルルーシュはそれ以上C.C.に食ってかかることが出来なかった。妙な責任感を持っているために、お得意の話術で煙に巻いてしまえなんて発想も出てこない。
「ああそういえば土産はあった。ほら、一等級の龍神茶だ。ありがたく思うといい。そして早急に私の食後の茶の用意をしろ」
「ピザに中国茶か?」
「油を流すには中国茶が一番だ」
「それはそうだが」
「それに私はおまえの淹れるお茶が好きなんだ。久しく飲んでいないからな、早く飲みたい。もちろん淹れてくれるだろう?ルルーシュ」
そう言ってC.C.はほんの微かに微笑んだ。
「…………」
釈然としない。
釈然としないが、ルルーシュは何も言わずに席を立って給湯室に向かう。C.C.が本当に自分の淹れたお茶を好いていることを知っているからだ。高圧的な態度は若干、いやかなり癪に障るが、それが彼女なりの照れ隠しであるということもこれまでの長い付き合いで理解している。まあC.C.が高圧的なのは普段からであって、それが照れ隠しゆえの態度であるのは飲食が絡んだとき限定ではあるのだが。
C.C.と違いまだ夕飯も済んでいないルルーシュは、彼女に長々と居座られても困ると考えた。だから中国茶器とそれらを乗せるためのワゴンをわざわざ用意はしようとはしない。この場でちゃちゃっと作ってしまい、ルルーシュは彼女のカップだけを持っていくことにする。ルルーシュ自身の分は淹れなかった。胃が空っぽの状態で中国茶を飲むのは正直キツイ。
カップを手に店内へ戻ると、C.C.はすでに食事を終えていた。案の定というか当然というか、片付けなどされていない。テーブルの上は食い散らかしたままだ。
口許をぬぐったナプキンですらくしゃくしゃのまま放置されている。ゴミを纏めるという発想すら彼女にはない。自然とルルーシュの口からため息がこぼれる。
C.C.が後始末なんてしないこともこれまでの付き合いで学んでいるから、いまさら注意も文句もルルーシュの口からは出てこない。だがこのあと自分がここを片付けるのかと思うと毎度のことながらうんざりする。何が悲しくて人の食事の後始末をしなければならないのか。しかしルルーシュが片付けなければこの惨状はこのまま維持されてしまうので片付けないわけにもいかない。そもそも片付けないで放っておくということ自体、綺麗好きで潔癖症のルルーシュには無理な話なわけだが。本当に損な性分である。
「ご所望の食後のお茶だ」
「なんだ、一杯分だけか?」
C.C.は不満そうに唇を尖らせる。一言ケチと呟いてからカップに口をつけた。食事中ですら口を閉じないほど口喧しいC.C.もこの時ばかりは静かになる。そんなC.C.をルルーシュも黙って眺めた。
こくりと一口。ちょっと間を置いて、また一口。一杯のお茶をゆっくりと飲むC.C.の顔はどこの表情筋にも力が入っていない。無表情だけれど、どこか落ち着いた面持ち。昔からルルーシュが彼女にお茶を淹れるたびに見る表情だった。何度も何度も見た顔だ。
やがて、最後の一滴まで飲みきったC.C.は満足そうにふうと一息ついて、目を細めた。
「ああ、満腹だ……」
さきほどまで胡坐をかいていた両足は今はだらりと床に投げ出されている。そして背もたれに思い切り凭れかかったC.C.は左手で自分の腹をさすった。
そりゃああの量をひとりで平らげたら腹も膨れるだろうという言葉は呑み込んでおく。ルルーシュは「そうか」とだけ言ってカップやらゴミやらを片付け始めた。ゴミを上に持って上がるよりもゴミ袋をこっちへ持ってくるべきか、それに台布巾も持ってこなくては、床も掃いておくべきだな、それと換気に消臭に……。とりあえずの処置としてゴミを一まとめにしたところで「ルルーシュ」と声を掛けられた。見ると、だらしなく四肢を投げ出して顔を天井に向けていたC.C.が視線だけルルーシュに向けていた。
「なんだ?」
というかなんだその弛緩しきった格好は。まだ帰らないつもりか。
いい加減帰れとばかりにルルーシュが目をすぼめると、逆にC.C.はニッと猫のように笑った。そして一言、「息吹」と言葉を投げてきた。
「……は?」
ルルーシュは怪訝に顔を顰める。「間抜け面」とC.C.が呟いたが、それは聞き流した。
「突然何を言い出すんだおまえは」
「突然も何も、息吹を受けずに帰ることなんて私には出来ないな」
しないならこのままここに居座るぞ。
ルルーシュの眉間の皺はさらに深くなる。
「ほれ、さっさと私に息吹をしろルルーシュ。おまえの愛で私の腹を満たせ」
「つい今しがた満腹だとかぬかしていたくせに、これ以上まだ食う気なのか……?」
「阿呆、別腹に決まっているだろう。御託はいいからさっさとしろ」
そう言ってC.C.はあごをしゃくった。その大きな態度にルルーシュのこめかみがぴくりと引き攣る。それが人にものを頼む態度かと怒鳴ってやりたい気分だったが、やがて諦めたように短くため息をつくと、ルルーシュは椅子に座ったままのC.C.を背後から抱き込んだ。
切り揃えられた前髪を丁寧に払い分け、秀でた額にそっと唇を落とし、優しく息を吹き込む。

彼女もまた、息吹を必要とする人形ドールだった。それもロロと同じ、人間を殺すことを目的として作られた、殺人人形マーダードールである。

ルルーシュがC.C.と初めて会ったのは、古い修道院の、誰も寄り付かないような物置部屋の奥の奥。
隠し扉の先にある薄暗い牢獄のような部屋の中で、C.C.はがらくたとなった人形たちに埋もれていた。彼女もその人形たち同様、埃をかぶったただのがらくただった。現在のように自由に動き回ることも出来ず、十歳にも満たぬ外見の少女は眠りに就いていた。それはあまりに寂しい光景で、ルルーシュは思わず彼女に手を伸ばしたのだった。
今から七年以上も昔のことだ。
(もうそんなに経つのか……)
ルルーシュが密かに感慨にふけっていたら「何をぼけっとしているんだ、息吹に集中しろルルーシュ」と耳元で罵声を浴びせられた。
「もう十分だろう」
呆れたようにルルーシュが呟くと、C.C.はまだ足らないとばかりにじろりと下から見上げてくる。これはまた長くなりそうだと思っていたら、今度はやけにあっさりC.C.は引き下がった。
「仕方ない。今日はこれくらいで勘弁してやろう」
椅子から立ち上がって腕を伸ばしているC.C.を、ルルーシュは信じられない気持ちで見つめる。あの傍若無人で、一度言っても聞かないC.C.が。こちらの都合などお構いナシで自分の欲求最優先の、あのC.C.が。
ぱたぱたと服についた食べ滓を払っていたC.C.はその視線に気づくと眉を吊り上げた。
「なんだルルーシュ、その顔は」
失礼だぞ。
(俺が失礼なら、人の家で――それも繊細な人形を扱っている店内で強烈な匂いのするピザを食べた挙句ゴミはそのまま放置で食べ滓まで床に撒き散かしているお前はどうなんだ!)
思ったことを正直に言ってしまえば絶対にくだらない言い争いになる。目に見えている。
(だからここは俺が譲歩しなければ、大人にならなければ……)
「さっきから何ひとりで百面相しているんだ……? まあいい。私はもう行くからな」
「? お前、何かやけに急いでいないか?」
「気のせいだろう。じゃあな、ルルーシュ。またお前の淹れたお茶が飲みたくなったら帰ってくる。あと、これはお礼だ」
 そう言ってC.C.はルルーシュの唇に自分の唇を押し当てた。
「…………ピザの味がするキスは、嫌がらせにはなってもお礼にはならない」
唇が離れるやいなや、ルルーシュはパッと口を右手で覆った。嘔吐きそうになるのを抑えるためだ。抗議する声にいつもの力はないし、C.C.を睨む目はまるで死んだ魚のもののようである。
ピザの味のキスは想像以上に破壊力抜群だった。
「それならば今度はレモンを口に含んでからキスしてやろう」
悪戯が成功した子どものような笑みを浮かべたC.C.は、「行ってきます」と満足げに去って行った。


book-13 sample 2011.03.07 Yu.Mishima