少年少女、ひた走るサンプル
冒頭部分
枢木スザクが初めて彼女を見たのは転校初日の四月五日。
教壇のうえから転校生お決まりの挨拶をしたときのことだった。
ふんわりと柔らかい笑みを浮かべて「これからよろしくお願いします」と軽く頭を下げると、クラスの女子の大半がハッと表情を変えたのが空気で分かった。処世術に長けているわけではないけれど、何度も何度も転校を繰り返すうちにスザクが自然と身に付けたのは、上手な笑顔の作り方。相手に好感は持たせても警戒心は抱かせない、そんな笑顔の作り方だ。第一印象は良いに越したことはない。
爽やかな笑顔の似合う上等な顔に産んでくれた両親に感謝したいところだが、そもそもスザクが何度も転校を強いられているのは両親のせいなのでプラマイゼロってとこだろう。
関東最大にして、金銭的な面も含め敷居が高いと有名な一貫教育校、アッシュフォード学園。この学校への転入でスザクの転校回数は通算二十七回目を迎えた。学校年度が九月始まりの学校に四月に転入してくるというのは、そもそもの敷居の高さに加え時期が外れているということで居心地の悪さは抜群である。
しかし二十七回目ともなるとすっかり転校というものに慣れてしまって、スザクは初日のこの挨拶に少しも緊張を感じない。ちょっとでも気を抜くと笑顔が剥がれ落ちそうになってしまうほどだ。だが初日の挨拶でちょっとでも反抗的な態度を取って男子の反感を買うと後々の対応が面倒なものになるから、ここは気合を入れて笑顔を作る。物珍しさに寄ってくるクラスメイト(色恋沙汰に浮かれる女子を含む)の相手をするほうが、喧嘩っ早い男子を相手に百人切りするよりずっとずっっとマシである。
百人切りだけで終わるなら、腕に自信のあるスザクは「べつに? 受けて立つよ?」と言いたいところである。それで終わるなら、だ。だが百人切りの事実が近隣の猛者たちまで呼び寄せてしまい、結果、どえらい人数を相手にしなければならず大変な目に遭うから嫌なのだ。律義にひとりひとりを相手にしなければいいだけの話なのだが、もともとスザク自身が喧嘩っ早い性質であるため立ち向かってこられたらついつい手足が出てしまう。体力無尽蔵の化け物と、褒め言葉なのか蔑みの言葉なのかよく分からない言葉をたびたび貰うスザクではあるが、毎朝毎晩雑魚とも言える相手を何人も伸していくのは疲れる。
大抵の人間は一撃で十分ではあっても、精神的に疲れてしまう。殴った一瞬はスカッとできてもそのあとは虚しいものだ。
そのうえ周囲の人々はスザクから距離を置く。スザクを見る目が明らかに変わる。喧嘩を自重していたにもかかわらず、体育で人並み外れた腕力と脚力を披露したがために周りにドン引きされたことだってあるのだ。加減なしの喧嘩を見てしまった日にゃ……身体が引いてしまうのも止むをえまい。
腫れものに触れるような扱いも、何かしでかすのではとはらはらした視線を浴びせられるのも、疲れるし面倒くさいし鬱陶しい。
だから無害な人間を装って大人しくしておくに限るのだ。モテない男子のやっかみをスルーするのはまだ楽なほうだし、スザクは男子に対してもイイ顔をする人間なので、今現在女子の興味をきれいにかっさらったスザクを敵対視している複数の男子生徒もそのうち懐柔できることだろう。
再度、にっこり笑ってクラスを見渡してみると、ほとんどの人間が笑顔を返してくれた。
このクラスでの感触は上々。これならうまくやっていけるだろうと思ったその矢先――
――スザクはあるものを目にして一瞬固まってしまった。
(――ッッ?! なにアレ?!)
教室の片隅に、真っ黒な毛むくじゃらが居た。
毛むくじゃらと言っても、もじゃもじゃしたものではない。ものすごく質の良いストレートの……あれは、黒髪だ。
(お、置物……? 人間……?)
窓際いちばん後ろの席に座っていたのはなんと、顔面すべてが髪の毛で隠れている人間だった。
(ええー本当に人間……?)
スザクはしつこくそれが人間であるのか疑う。
前髪を長く伸ばしていて目鼻が見えない人間に会ったのは何もこれが初めてのことじゃない。それでも普通は前髪の隙間からちらっと目が見えたり、鼻が見えたり、口が見えたりするものだ。
だけど窓際最後尾に陣取っているその毛むくじゃらは、比喩ではなく、本当に顔が見えなかった。少しの隙もなかった。というか輪郭すら見えなかった。ふつうの人間よりもはるかに視力の良いスザクが目を凝らしてみても、前髪に隙間を見つけることはできない。
(ていうか、あれは前髪と言えるのかな……)
頭のてっぺんから、(おそらくは)あごの下まできっちり真っ黒な髪の毛が覆っていた。まるで黒いモップに首が生えているようだ。ヘルメットをかぶっているようでもある。
そのうえよくよく見てみると、その毛むくじゃらの顔なしさんが着ているのは深い紺色のセーラー服。当然のことながら、それは女子の制服である。
(――……え、女子?!)
スザクは強い衝撃を受けた。まさか女子とは、と思う。女子力ゼロどころかこれはマイナス方向に突っ走っている。上流家庭の子女ばかりが集まるハイソな学校に、ここまで外見に気を使わない野暮ったい女の子が存在するとは……と、うっかり笑顔を忘れて見入ってしまいそうになる。だが割と早い段階で、それが誤解であることにスザクは気づいた。
book-09 sample 2010.10.05 Yu.Mishima